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11月 7

「きみは今からうちの説明会なんだね、遅刻するから行きなさい」  何をすべきかもわからず、呆然と突っ立っている自分にかけられた声。 「受付にいる誰かにこう伝えてくれないかな、会社の前で転んで怪我をしたおばあさんがいるから、営業のしばたが救急車を呼んでくれと言ってるって」  営業の、しばたさん。朔は頭の中で繰り返して、はい、と答えた。しばたさんは、上品な水色のネクタイにおばあさんの血がついてしまったことも気にせず、朔に言う。 「急がないと遅刻する、この会社は時間にうるさいから行きなさい、この人は大丈夫だから」  朔は建物の中に駆け込み、しばたさんから言われた通りに受付の2人の女性に伝えた。1人が外に飛び出して行き、1人が机の上の電話の受話器に手をかける。おばあさんのことが気になり、後ろ髪を引かれる思いはあった。しかししばたさんの気遣いを無駄にするべきではないと考え、朔は左手奥のエレベーターに向かって走る。  ……営業のしばたさん。明瞭な話し方をする、優しい目の人だった。この会社の人なんだな。  朔は柔らかい光を瞼の裏に感じて、緩やかに覚醒する。雑に閉めたカーテンの隙間から、朝日が直接ベッドに射して来ていたが、冬が近いからか、そんなに眩しくなかった。  久しぶりに、就職活動をしていた時の夢を見た。何の予定も無い日曜日の朝に、夢の余韻を引きずりつつ、朔はふわりとした幸福感を満喫する。  それは楽しく心が満たされる思い出だったが、半年後に苦々しく期待を裏切られた鉛色の記憶とセットになっていた。  その会社の他に、朔はあと3社から内定を貰うことができた。就職活動を始めた頃は営業に興味は無かったが、その会社の営業が面白そうに思えたことや、あのしばたさんが先輩になってくれるという期待が、最終的な決め手になった。  しかし入社して営業部に配属されると、しばたさんはいなかった。朔が尋ねると、先輩たちは彼の話を避けたがった。聡い朔はすぐに気づく。あるチームリーダー、株式会社エリカワなら課長補にあたる人物としばたさんとの間で、何かが起きた。  以前しばたさんと共に働いていて、営業部から閑職と言われている社史編纂室に異動した人から、委細を聞くことができた。チームリーダーは外向きは優秀な営業マンだが、思い込みが激しく、社内では敵と見做した相手を容赦なく攻撃する傾向があった。彼は将来を期待されていたしばたさんを、自分の出世の邪魔をする存在だと考え、目の敵にした。しばたさんは卑怯なやり方で追い落とされ、退職するよう仕向けられたのだった。  そんな安っぽいドラマのようなことが現実に起きるのかと朔は呆れ、チームリーダーや営業部の連中はもちろん、しばたさんを守らなかった会社も一気に信用できなくなった。密かに転職活動を始めて、朔はたったの1年で辞める残念な新入社員となった。  朔はひとつ溜め息をついて、お気に入りの枕を抱きしめる。俺の職歴に無駄な傷がついたのは、あの人のせいなんだからな。  「営業のしばたさん」の姿を見失ったことで、朔のその人への淡い憧れは執着じみた恋情に変化していた。とは言えもはや、朔の力では彼の足跡を辿ることは叶わなかった。  3月31日付けで前の会社を辞めた。その翌日から朔は、性的少数者に優しい企業だと評判で、かつて内定をもらっていた株式会社エリカワの営業担当として働き始めた。  阿佐ヶ谷に引っ越した3年前、人事課に転居届を出しに行った時の衝撃を、一生忘れることはないと朔は思う。あのしばたさんが、受付に近い場所に座っていた! 見違えることはなかった。そしてあの時のように、親切にてきぱきと対応してくれたが、その表情に覇気は無かった。  どうしてこんなところにいるんだ。朔は転職して以来営業の業務に忙殺されていたため、他の課にどんな人間がいるのか、ほとんど知らなかった。こっそりと情報収集すると、何としばたさんは朔と同じ日に入社していた。入社式がおこなわれた大会議室には、新入社員と第二新卒の自分たちの他に、確かに中途採用の人たちが数名いたが、全く気づいていなかった。  人事課の柴田晃嗣は、存在感を消してひっそりと働いていた。独身で真面目な人だということくらいしか、伝わってこない。感染症が蔓延するまでは開催されていた、会社全体の忘年会や日帰りバス旅行のような場でも見かけなかったので、柴田がそういうイベントを避けている可能性が高かった。  朔はひとつ、大きなあくびをした。布団を肩にかけ直して、抱いた枕に顔を埋める。もう柴田のことは、自分の中でひと区切りつけたつもりだった。目の前で転んだおばあさんを、自分より先に助けに走った凛々しい後ろ姿は、もうどこにも無い。人事課の柴田はあのしばたさんとは別人で、そもそも同性愛者である朔の手が届く相手でもないだろうから、追う理由も無い。  それが先月、状況が急転した。彼はゲイで、朔を好みのタイプだと言って金を出してまで会おうとしてくれた。学生時代から憧れ続けたしばたさんじゃないと思っていたのに、あの時のイメージのままに、自己管理が不十分な自分に優しく真摯に接してくれた。  年上らしい抱擁力を見せるかと思えば、抱きしめたりキスしたりすると、普段の姿から想像もつかない顔を見せてくれるので、ギャップ萌えすること甚だしい。2回いかせてやった夜の彼の姿は、文句なしに朔のベスト・オブ・おかずである。あれはたぶんリニューアルしばたさんなのだと、朔は思うようにしている。  実のところ、夢を見ているようで、朔は柴田の前でどう振る舞えばいいのか、よくわからない。ディレット・マルティールのさくと営業課の高畑朔が同一人物であることを、はなから隠す気は無かった。赤の他人のふりをしたのも深い意味は無く、柴田をからかいその反応を見たかっただけである。彼は明らかに戸惑っていたが、朔に事情があると考えたのか、詮索してこなかった。……そういう人なのだ。 「柴田さん……」  朔は枕を抱く力を強めて、呟いてみる。 「晃嗣さん……」  これも悪くない。朔は1人で笑う。 「……こうちゃん……」  意外としっくりきた。渋谷のホテルで昇り詰めた後に眠ってしまった彼は、こうちゃんという感じだった。  いつか柴田に自分をさっくんと呼ばせよう。朔は母と姉から今もそう呼ばれているので、先輩社員やパートさんが親しみを込めて、自分にさっくんと呼びかけてくるのが好きだ。 「ああ、こうちゃんとしてみたい……」  柴田を抱いてやるのだ。きっとネコの素質があると朔は思っている。柴田は男らしい首や肩に似合わず、腰がやや細くて尻の形が良いのがセクシーだ。是非後ろから挿れてみたい。彼があの少し癖のある黒い髪を汗で濡れた額に貼りつけ、自ら腰を揺らしながら、さっくん、もっと、などと口を半開きにして喘ぐのを想像すると、身体の奥が熱くなってくる。  しかし朔はあまり自慰をする気にはなれなかった。とにかく眠い。昨日は午後から、連続で5人もの指名をこなした。1日3人以上の客に接するのは久しぶりで、流石に疲れてしまった。  柴田さん、3回目の指名してくれないかな。本音を言うと、もう金を貰わなくてもいいので、いくらでも柴田をいかせてやりたい……挿入もアリで。でも彼にそう伝えるには躊躇いがあった。金が介在した契約であるからこそ、遠慮なく性的な触れ合いに没頭できる部分があるからだ。  朔はディレット・マルティールのスタッフである時と、普段の自分とを分けてはいないが、柴田には何となく、高級デリヘルの売れっ子である面を見せておきたい。そのほうが、彼もきっと楽しいと思うからだ。営業マンの自分は、かつて同じ仕事をしていた柴田にとって、何の期待感もときめきももたらすことができないだろうから。  枕元のスマートフォンがくぐもった音を立てて震えた。あまり楽しい連絡ではないと直感したので、確認を先延ばしにして、朔はそのまま睡魔の誘惑に身を委ねる。今度柴田を腕に取り込んだ時は、彼に身を硬くせず柔らかく脱力してもらいたい。触れると何だか嬉しそうなのに、どうしてあんな頑なな空気を醸し出してくるのだろう?   今度はちゃんと長いキスもしてやるぞ。枕を抱きしめながら、朔は幸福感を全身に巡らせるように、大きく深呼吸した。

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