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12月 3 ③

 朔はふん、と鼻を鳴らして、晃嗣の手首を掴み、その場を離れた。晃嗣はなすがままにとんかつ屋の入り口に連れて行かれたが、憲一のほうを一切振り返らなかった。  自分でも不思議だった。憲一に妻子がいると気づいた時、自分の思い違いだと信じたかったし、運営から連絡があった時にショックを受けるほどには、憲一に惹かれていた。なのに今は、自分の手を引く年下の男の存在のほうが大きく、彼に憲一と自分との関係をどう受け取られたのかが、不安で仕方がなかった。  店は混んでいたが、カウンター席を取ることができた。 「柴田さん、大丈夫? 食う気ある?」  朔に訊かれて晃嗣は頷き、日替わりの定食をオーダーする。  気まずかったが、自分が話さなければ始まらないだろうと晃嗣は思う。恥を晒す覚悟を決めて口を開いた。 「あの人、春にマッチングして6月まで会ってたんだ」  朔は湯呑みの茶を飲んでから、言った。 「……なるほど、あいつバイだって隠してたんだ」 「あの人がバイでも別によかった」  晃嗣の言葉に、朔は眉を顰めた。この期に及んで庇うのかとでも言いたげだったが、晃嗣は続けた。 「でも奥さんと子どもがいるんだよ……最後にレストランで会った日に、彼がトイレに立った途端に電話がかかってきて……」  テーブルの上で震えるスマートフォンの画面に、女の名が表示されていた。晃嗣は女が本命なのかと真っ先に思ったが、勝手に判断するのは良くないと自分を戒めた。  しかし電話が切れて30秒もしないうちに、憲一のスマホは再び震え、LINEのプッシュ通知を画面に表示した。 「珠恵がパパの帰りを寝ずに待つって言ってる。できれば早く帰ってきてあげて」  一瞬、店内のざわめきもBGMも、何も聴こえなくなった。それまで会食は良いムードで進んでいて、今夜は憲一と一緒に過ごしてもいいと晃嗣は考えていた。しかしそのメッセージは、電話に出ない夫に妻が送ったものとしか思えなかった。憲一がバイでも構わなかったが、家庭を持つ男と深い関係になるのは嫌だった。  自ら黒歴史を暴露する恥ずかしさで、段々と話す声が小さくなる晃嗣に、朔は言った。 「あいつが全部悪いんじゃないか、何で柴田さんがそんなに申し訳なさげに話すんだよ」 「……人のスマホを覗き見した罰なんだ」 「何? その後ろ向き過ぎる発言……わからなかったら不倫する羽目になったんだろ? もし奥さんにバレて訴えられたら、柴田さんが慰謝料払わなきゃいけないんだよ」  朔に諭されて、晃嗣はそうだな、と呟いた。 「だから神様は柴田さんを間一髪で助けてくれたんだって」  朔の言葉に、そうか、と晃嗣は考える。きっとあの夜憲一と寝なかったのは、正解だったのだ。……今になって、ようやく心からそう思える気がした。  とんかつとチキンカツのランチがやってきた。揚げたての香ばしい匂いは、気落ちした晃嗣の胃袋を刺激してくれた。 「あんな奴は柴田さんに相応しくない」  朔は割り箸を2膳取りながら言った。晃嗣は彼に礼を言い、箸を受け取る。 「柴田さんが悩んで悲しんだことなんか、これっぽっちも想像してなさそうだし……人としてアウトだ」  朔はキャベツの千切りを一番に口に入れた。晃嗣もそれに倣う。血糖値を急上昇させない食べ方である。  チキンカツは衣がさくさくして身が柔らかく、美味だった。晃嗣は恋愛の失敗を朔の前に晒した情けなさや恥ずかしさが、少しずつ癒されるのを感じていた。 「あ、朔さん、ひとつ訂正」  汁椀を手にした晃嗣は思い出して、言った。 「あの人ネコなんだ、穴があれば何処にでも突っ込む訳ではないよ」  朔はとんかつを飲み下してから、露骨に嫌な顔をする。 「……女には挿れて男には挿れさせるのか、俺にはわからん……てかそんなこと訂正しなくていいって」 「きみがあの人がタチと思ったということは、俺がネコになるんだろ? それは事実じゃない」  晃嗣の言葉に、朔はにやりと笑った。こいつはもし俺とやるとしたら、俺を抱く気なのか。晃嗣は軽く困惑する。  しかし自分が朔を抱くというのも、何だかピンと来ない。晃嗣はタチとしての自分のアイデンティティが、朔のせいで揺らぎ始めているのではないかと、ふと恐怖混じりに感じた。 「それと、こうちゃんって何だよ」  恐れのようなものを振り払うべく、晃嗣は言った。ご飯を頬ばっていた朔は、軽くごめん、と応じる。 「あいつに親しいアピールしたかったから、不愉快だった?」 「あ、いや……」 「家族からこうちゃんとは呼ばれてなかった?」 「は?」  晃嗣は思わず横に座る朔の顔をまじまじと見た。彼はきれいな形の目を、ゆっくりと瞬く。 「何かそんな感じがしたから……個人の感想です」  確かに母方の祖父母は鬼籍に入るまで、晃嗣をこうちゃんと呼んだ。成人してからは恥ずかしかったが、晃嗣の兄がちゃんづけされるのを早くから嫌がったので、否定しなかった。祖父母孝行の気持ちがあったかもしれない。 「柴田さんもプライベートでは俺のことはさっくんでいいよ」 「へ?」  は行の疑問形を連続して繰り出す晃嗣に、朔は何でもないように続ける。 「俺実家でさっくんって呼ばれてるから、違和感無いんだよね」  何故お互いの呼び方の話なんかしているのだろう? いい年をした男どもが、本気でこうちゃん、さっくんなどと呼び合うつもりでいるのか? それはきっと周囲がドン引きする。人目を気にしなくていい場所ならいいだろう、例えばホテルや家の中とかなら……さっくんと呼んだら、喜んでくれるのか。でもこうちゃんはちょっと……。 「柴田さん、味噌汁そんなに熱かった? 顔赤いけど」  朔の良い声に晃嗣は我に返って、何でもないとややつっけんどんに答えた。自分の妄想が、いよいよ救いようの無い方向に振れ始めたことが、やはり恐ろしかった。  朔は美味いね、と言いながらとんかつに箸先を伸ばす。鼻筋の通ったきれいな横顔を盗み見しながら、晃嗣は助けられた嬉しさと、この先朔とどうつき合って行けばいいんだという不安混じりの迷いの間で、気持ちをふらふらさせていた。

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