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12月 4 ①

 寒さが強くなり、人事課が忙しくなる月がやって来た。入社や異動がある4月と10月も忙しいが、年末は細かい作業が増える印象だ。晃嗣は各部署から集まった年末調整の書類を、洩れや抜けが無いかどうか、後輩たちと一緒にチェックする。  転職し業務が変わって晃嗣が感じたのは、基本的に個人プレーである営業と違い、人事の仕事はチームプレーだということだ。一つの業務を、確認のために複数で処理することが多い。また、自分だけが早く処理できても、あまり意味が無い場面もある。おそらく総務や経理の事務系部署はどこもそうなのだろう。  そういう意味では、今の仕事は、晃嗣が大学時代の4年間在籍した吹奏楽部に少し似ているのかもしれない。吹奏楽は、団体音楽である。技術を持つ者がアンサンブルを引っぱることはあるが、ソロパート以外は過度に突出すると調和を乱し、指揮者に睨まれる。  一人でやったほうが早いのに、と少し前まではよく思った。でも今は違う。後輩と一緒に仕事をするのは、彼ら彼女らの足りないところを見極め、育てるためであり、同時に自分の至らないところに気づくためでもあるからだ。  軽い足音がして、誰かがこの部屋を訪れる気配がした。晃嗣は耳だけでそれを確認する。 「こんにちは、営業課12名分持参しました……これで全員提出です」  言いながらやって来たのは朔だった。彼は年末調整の書類の入った封筒の束を、立ち上がった晃嗣に手渡した。晃嗣は朝から彼の顔を見るという想定外の展開に、自分の手が緊張したことを自覚した。 「はい、了解です」 「遅くなってすみません」 「いえ、いただいた分から始めてますから」  晃嗣が答えると、朔はマスクの上の目を笑いの形にした。そこに愛想以上のものが混じっているのを感じ、晃嗣は軽く戸惑う。  営業は良くも悪くも、個人プレーの要素が強い。晃嗣もかつてはそうだった……つまり朔はソリストだ。大勢のアンサンブルの中の一人である自分とは、毛色が違う。そのことが少し、晃嗣を複雑な気分にする。 「柴田さん、お昼上で食べる?」  朔は声を潜めて訊いてきた。え、と晃嗣は驚き、周りに思わず目配せしてしまう。 「はい、まあ、そのつもりです」  こそっと晃嗣が答えると、隣のデスクの女子社員が、自分たちを見上げるのが視界の隅に入った。  晃嗣の警戒も意に介さず、朔は応じる。 「じゃあ12時に社食で」  手ぶらになった朔は、軽く手を挙げてすたすたと出て行った。晃嗣は鼻から息を抜いて、甘みを帯びた緊張を解く。 「柴田さん、高畑さんと親しかったんだ」  知らぬ間にすぐ傍まで来ていた瀬古課長に言われて、晃嗣は肩を小さく震わせた。落ち着け、と自分に言い聞かせながら、こんな時のために用意しておいた言葉を繰り出す。 「親しいってほどじゃないですけど、同期入社だって最近わかったんですよ、それから何となく話すようになりました」  へぇ、と瀬古や周囲の社員が軽い驚きを表す。 「そっか、柴田さんは中途で4月に入社したのね」 「お互い入社式にいたなんて知らなかったよなって話になって」  これは嘘だった。晃嗣は朔に目を留めていた。彼は、晃嗣を見た記憶は無いと話してくれたが。 「柴田さんや高畑さんの同期は、新卒も中途さんも皆頑張ってるよね、存在感のある人が多いというか」  瀬古は朔が新卒入社だと思いこんでいる様子だが、わざわざ訂正しようとは思わなかった。 「柴田さんは中途採用の星候補の一人だし……」  瀬古は半分独り言にしながらそう口にして、マスクの上の目に微笑を浮かべ自分のデスクに戻った。先日西山部長から聞かされた昇進の話は、どうも本格的に動いているらしい。少し胸の中がくすぐったかった。  作業の続きを始めた晃嗣は、後輩の片方……山口(やまぐち)から出し抜けに訊かれた。 「柴田さん、高畑さんの彼女ってどんな人か、ご本人から聞いたことあります?」 「彼女?」  晃嗣はその言葉をおうむ返しした。カノジョというその単語が、今まで聞いたことのない外国語のように感じた。 「あ、ご存知ないんですね」  山口に言われて、晃嗣はやや嫌な感じに混乱してくる脳内を整理しようと努める。 「少なくとも俺は……本人の口から聞いたことはない」  どういう意味だ。朔さんはゲイだ、彼氏の間違いではないのか。……ということは、もしや俺のことなのか? 晃嗣は後輩から情報を引き出すべく、言葉を探す。 「高畑さんにそんな女性がいるのか?」 「いや、噂ですよ」  相良(さがら)が電卓から顔を上げた。保険料控除のための証明書に書かれた金額を合算するという、面倒な作業中である。来年あたり自動入力できるようになりそうだという噂だが、晃嗣はあまり当てにしていない。 「親を安心させてやりたいから、婚活を始めるとか何とか」  晃嗣は婚活という言葉に、頭の中が白濁していくのを感じた。若い2人は、そんな晃嗣に気づかず朔の噂を続ける。 「婚活なんかしなくても、高畑さんならこの会社の中だけでも女子よりどりみどりなのにね」 「高畑さんって福島出身だっけ? 故郷に約束を交わした幼馴染とかいそう」 「あはは、何処のいい家のぼっちゃんなのよ、確かに高畑さん王子系だけど」  何の話だ? 話題になっているのは誰? 晃嗣は意識を飛ばしてしまわないように、2回深呼吸した。ただの噂話だと自分に言い聞かせてみるものの、朔が親を安心させてやりたいと話したというネタには、信憑性を感じる。  朔は家族思いで、体調が良くない父親に代わり、長男である自分が家族を支えなくてはいけないと少なからず考えている。彼と話す時間が増えて、晃嗣は彼の思考の癖や基本的な価値観を理解しつつあった。  だが、ゲイなのに本当に女性と結婚するつもりなのか? 名ばかりの結婚をして、男の愛人を持つのか? 両親に安心してもらうための方策としては、褒められるものではないだろう。  それで……俺はどうなる? そもそも俺は――朔さんの何なんだ? 「柴田さん、さっき高畑さんの持って来た営業課の分、開けましょうか」  相良の声に、晃嗣はびくりとなった。いけない。昼休みに彼に会うのだから、直接訊けばいいことだ。おかしな噂が出ていると教えてやろう。 「開ける前に名前チェックして、今日の日付けも入れて」  はあい、と彼は答えた。部屋が静かになる。晃嗣は下唇の内側を上の歯で噛んだ。集中力を取り戻したい時の癖だった。そのうちじわりと血の味がしてくるまで、過剰に力が入っていることに気づかなかった。

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