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12月 4 ②

 作業を黙々と進めるうちに休憩時間が訪れ、晃嗣は人事課の数名の社員とともに、社員食堂に向かうべくエレベーターに乗った。前の会社は、晃嗣が退職する直前に社員食堂を閉めてしまったが、栄養バランスが考慮された熱々のご飯を、安価で提供してくれる施設があるというのは、本当に有り難い。少なくとも晃嗣は、そう思っている。  寺や神社などの数倍有り難いその施設の入り口の脇には、他部署の友人を待つ社員がいつも数人立っている。朔はそこに混じっていたが、彼が他の人と違いふわりと輝いて見えるのは、晃嗣が相当イカれている証拠だった。 「お疲れさまです、人事は忙しいシーズン到来ですね」  朔に言われて、うんまあね、と晃嗣は軽く返した。 「営業だって慌ただしいでしょう? 今日は内勤なんですか?」 「3時にうちにいらっしゃるかたがあるんです」  2人は敬語で話し合いながら、首から下げた社員証を券売機にかざして食券を買う。この券売機は晃嗣が転職してきてすぐに導入され、さすが一部上場の大会社だなと感心したもののひとつである。総務課で個人別の購入額が毎月データ化され、人事課で給与から天引きするよう処理するのだ。  2人して八宝菜がメインの中華の定食を選び、盆を持って奥の席に向かった。  いただきます、と手を合わせてから、晃嗣は早速口火を切った。午前中、もやもやして仕方なかったからである。 「さっき朔さんが帰ってから……ちょっと変な噂が出たんだけど」  朔は八宝菜の白菜を箸で摘みながら、どんな噂? と訊いてくる。周りに人があまりいないからか、口調はくだけていた。 「朔さんが結婚を考えてるとか」  晃嗣は朔が笑い飛ばすのを想像、あるいは期待していたが、彼はうーん、と否定もせずに苦笑した。 「結婚したいんじゃないんだ、親を安心させたいだけ」  それは晃嗣もちらっと聞いている。うん、と緩く相槌を打ち、わかめのスープに口をつけた。 「この年になったらさ、やっぱ結婚が一番手っ取り早い安心ネタかなと思うんだ……柴田さんに回ってきたのは、たぶん営業課でしてたそんな話」  晃嗣は他人事のように話す朔に、突っ込んでみる。 「それで……実践する気なのか?」  朔はまたもや否定せず、そうだなぁとのんびり応じて、良い声で淡々と話す。 「俺の理想としては、他に好きな人がいるとか女が好きだとかっていう女性と形だけの結婚をして……お互い干渉せずにやっていく」  晃嗣はあ然としてしまった。本気でそんな陳腐な漫画のようなことを朔が計画しているなら、とてもではないがついていけなかった。  不快感が顔に出てしまったせいだろう、朔は晃嗣の顔をじっと見てから眉の裾を下げた。 「柴田さんは真面目だから、こんなの大嫌いだよな」 「……その彼女も、欺かれる両家の家族も可哀想だ」  晃嗣は言って、視線を下に向けた。千切りキャベツの上に乗った2本の春巻きを、早く食べないと冷めてしまうのに、食指が動かない。 「柴田さん、家族に自分が男が好きな人間だと話してるの?」  朔の問いに、晃嗣は軽く首を横に振った。 「あ、でも兄にはおそらく感づかれていると思う」  晃嗣は2歳上の兄と仲が良い。お互い中学生になった頃から、女性の存在を意識し始めた兄を見て、何故感じ方がこんなに違うのだろうと疑問に思った。きっと兄も弟に対して同じように思っていただろうが、これまで兄が、その違和感を口にしたことは無い。そして晃嗣は自分が少数派であることを早々に悟ったので、いつしか「彼女」という言葉が兄弟の会話に出なくなった。  朔はそうなんだ、と吐息混じりに言った。 「柴田さんの言う通りなんだよな、もしこんなやり方をしたって一時凌ぎでしかない」 「余計に家族に心配かけるぞ」  朔はおそらく、家族に自分の性的指向を隠しているのだろう。 「俺がもし朔さんの父親だったら、最初びっくりさせられても正直に話してもらいたいと思うし……」  晃嗣は言葉を切った。このような場面で「もし」と言ってみても、無意味だと思う。  朔は春巻きを入れた口をもぐもぐさせた。やや深刻な空気の中でも、可愛いなと思ってしまう晃嗣である。 「んー、たぶん俺の父親は柴田さんと同じことを言うんだよね」 「……じゃあどうして、変なごまかし方をしようとするんだ」  朔に噛みつき気味の晃嗣は、少し周りが気になって目線を走らせた。誰も自分たちを気にしてはいない。朔はそんな晃嗣を見て、微笑した。 「……俺自身が男が好きな自分を……どっかで恥じてるというか……なのかなぁ」  晃嗣は驚き、心臓がひとつどっくん、と音を立てたのを聞いたような気がした。朔はゲイであることをカミングアウトしていないが、知られるならそれで構わないという飄々とした態度を取っている。ディレット・マルティールの仕事も、指向を生かした稼げる副業と見做しているのだろうと、晃嗣は思っていた。 「……誰かに何か言われたのか?」 「いいや、自分のことは誰にも話してないし……ちゃんと知ってるのは、柴田さんと綾乃さんくらいだよ」  晃嗣は何をどう言えばいいのかわからない。晃嗣だって、自分は男が好きだと堂々と言える訳ではない。  しかし男が好きなことを、ごまかすことも否定することもできない。前職を辞めると決めた頃、晃嗣は夜の街をふらふらしながら、その場限りの同性との逢瀬を繰り返していた。自己嫌悪混じりに、やはり自分は男と触れ合いたいのだと実感して、結果的に事実をだいぶ受け入れることができた。 「少なくとも俺は……男が好きな朔さんを否定しない、だから俺の前では恥じないでほしい、こっちがほんとに悲しくなるから」  晃嗣は思うままを口にした。何も誇張せず、飾らなかった。  朔は箸を持ったまま、晃嗣をじっと見つめる。きれいな形をした、明るい色の瞳を持つ目。 「……だったらどうすれば、安心して貰えるのかなぁ」  朔は真面目に問いかけてきていた。晃嗣は思い出してみる。高校生になったくらいから長期休暇に遊びに行かなくなった、山梨の祖父母は何と言っただろう? たまには声を聞かせてほしい、ひと言手紙を書いてくれないか。……面倒な時もあったが、晃嗣は2人が逝くまで、暑中見舞いと年賀状を自分の名で出していた。もし今祖父母が生きていたら、リモート通話をしたがったかもしれない。 「……元気にしてるとこまめに伝えたらいいんじゃないか? 今までそんなに家族に心配かけるようなことをしてきたの?」  晃嗣の問いに、いや、と朔はかぶりを振った。 「父が慢性的に不調なもんだから、母は俺に仙台あたりで就職してほしかったんだ……東京で働くって言ったらがっかりされたし、俺も自分で決めたのに申し訳ないって気持ちが抜けなくて」 「妹さんは? もう家を出たのか?」  まだだけど、と答えて、朔はゆっくりと視線を外す。 「つき合ってる人はいるみたい、結婚を考えてるのかはわからない」  両親が今も大きな病気もせず、結婚した兄も幸せにやっているので、晃嗣は家族の心配などしたことがない。だから朔の気持ちを100パーセントは理解できないと思う。でも。 「朔さんは朔さんの人生を歩んで、幸せにやってるって実家に伝えたらいいんだ、どんなに忙しくても忘れてはいないって……それじゃ足りないのかな」  ん、と小さく言って味噌汁を啜る朔は、何となく心細げに見えた。晃嗣は春巻きにかぶりつく。椎茸と豚肉の風味が、やっと食欲を刺激してくれた。  茶碗を持つ朔は、ぽそっと呟いた。 「ああもう、今ここで柴田さんのこと抱きたい」  晃嗣はご飯に咽せそうになった。何故話がそう転ぶんだ? 「やめろ、こんなとこで」 「5階の空いてる会議室なら抱いてもいいの?」  朔がじっとりと見つめてくるので、晃嗣は顔が熱くなるのを止められない。 「そういう意味じゃない、ゲイバレしたくなければ、会社の中でそんな話はやめておけってこと」 「俺はバレてもいいんだけど」 「俺は嫌だ、それに俺はネコじゃない」  いひひ、と朔はやや下品な笑いを洩らす。彼が笑ってくれたことに、晃嗣はほっとした。  俺じゃ駄目なのか。これまで何度となく浮かんで消えた問いかけが、また頭の中を駆け巡る。きみの両親に、俺をパートナーだと紹介してくれないか。  気を取り直したようにご飯を頬張る朔を見ながら、晃嗣は口にできない気持ちを一人で持て余していた。午前中に噛んでいた下唇の内側に、スープがしみた。

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