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12月 5 ①

 ようやく暖まり始めたキッチンで、晃嗣が冷えた足先を擦り合わせながらパンを齧っていると、スマートフォンが震えた。こんな早くから何だと思いながら画面を覗き込むと、朔からのLINEだった。 「おはようございます。早朝からごめんなさい。一時帰宅中の父の具合が悪くなり、夜中に病院に運ばれました。今日は休んで、今から郡山に戻ります。一応報告。」  晃嗣は驚く。想像していた以上に、朔の父親の体調が良くないことを思い知らされた。もしものこともありえる、という意味だろう。  食事の手を止め、晃嗣は言葉を選びながらキーパッドを叩く。営業課の人間にも、連絡しているだろうか。 「おはようございます。気をつけて行って来てください。有休が使えるように、こちらからも桂山課長に連絡しておきます」  休みの処理などどうでもいいとは思ったが、朔と彼の父親の状況がはっきりしないのに、励ましや慰めの言葉を送るのは躊躇われた。  朔から、ありがとうと言いながら頭を下げるウサギの、動くスタンプが送られてきた。重そうな耳につられるように身体を折るウサギに、少し和んだ。  学生時代、吹奏楽部のサックスパートの先輩が、在学中に父親を見送った。全身に癌が転移して、最期を緩和ケア病棟で迎えたと本人から聞いた。父親が体調の良い時に自宅に戻ってくると、皆で父親の好きなものを食べるのだと話してくれたことを思い出す。  もう少し突っ込んで話を聞いておけば良かったと晃嗣は思う。病名も知らないので、何を言えばいいのかわからない。朔が言葉など求めていないのであれば、別にいいのだが。晃嗣は今日の天気同様、胸の中に雨が落ちてきそうな雲が広がるのを感じつつ、朝食を平らげた。  営業課の桂山課長は、10時に人事課にやって来た。彼は自分の名前を先に入れて、朔のために有給休暇願を作っていた。 「さっく……高畑くんには、今日明日で届けを準備しておくと連絡してます……出勤してきたらハンコを押しに行くよう言いますね」  部下を愛称で呼びそうになる桂山と、本人の名が空白のままの届けに、晃嗣は流石に笑ってしまう。 「桂山課長、別にここまでしなくても有休で処理できますよ」 「そうですか? 私があまり有休届を出さないものですから、とにかく先に出さないといけないとばかり」  もちろん予定した休日のために、事前に届け出るべきなのだが、病欠を事後に有休で処理することも、この会社では普通におこなわれている。 「桂山課長が有休届の出し方をよくご存じ無いことのほうが問題です」  営業課で一番有給休暇を消化していないのは、目の前にいる人の良さげな男性である。 「……あと、もしかすると忌引きになる可能性もあると思うので、桂山さんのほうで持っておいていただけますか?」  晃嗣は少し声を落とし、届けを桂山に返す。彼は小さく頷いた。 「高畑くんが中学生の頃から、お父さんが入退院を繰り返していると聞いてます……元々腎臓がお悪いらしくて、彼が大学3回生の頃からは癌だとも」  桂山の言葉に、そうですか、と晃嗣は応じた。思わぬところから情報を得たが、自分に話してくれない朔は水臭い、とつい思ってしまった。  長く患う故郷の家族のことを気にかけながら、都会で孤独に働く。……晃嗣は朔がずっと抱えて走ってきたものの重さに思いを馳せる。  晃嗣が東京で独りで暮らすのは晃嗣の勝手で、通勤時間がやや長いから、ということが主な理由である。東京の私大を出てそこそこの会社に就職し、転職の際は嫌な思いもしたが、晃嗣には家族を心配する種が無い。実家で両親は元気に暮らしており、その近所に兄夫婦がいる。もし誰かに何か起きても、春日部はすぐに帰ることができる場所だ。  しかし朔は違う。仙台の大学の教育学部に通ったのは、教師となり故郷に戻ってほしいと、家族が希望したからなのかもしれない。しかし彼は、卒業後に東京で営業マンとなることを選んだ。以来ずっと、自分の描く未来と、離れた場所で不安を抱える家族との間で、揺れ続けてきたのだ。  朔の抱えているものを、ほんの少しだけでも、代わりに預かることはできないのだろうか。晃嗣はキーボードを叩く手を止めて、つい考え込む。でないと本当に、朔は女性と結婚し、退職して故郷に戻ってしまうかもしれない……そして……。  駄目だ。そんな選択をすれば、いくら元気な朔でも、きっと心が破綻してしまう。だが晃嗣は、自分が彼にしてやれることが、友人としてさえも何も無いと気づいて、無力感に襲われるしかなかった。  朔は昼休みに、少し長いメッセージを寄越した。父親は意識を取り戻して、何とか命を繋いだけれど、あまり朔のことを認識していない様子だという。晃嗣は母方の祖母が逝った時のことを思い出す。息を引き取る前日、病院のベッドで目を覚ましていた彼女は、晃嗣をぼんやりと見つめただけで、こうちゃんとは呼んでくれなかった。  時間の問題かもしれない。晃嗣まで重い気分になったところに、追い討ちをかけるような吹き出しが続いた。 「叔母が見合いの話を持ってきて困ってます。父の手前、写真と釣書を受け取らざるを得なくて」  晃嗣は慎重に、どうするの、とだけ返事をした。すぐに吹き出しがスマートフォンの画面に現れる。 「どうしよう。しかもお相手が小中一緒だった同級生とか笑える」 「顔見知り?」 「写真見て思い出せなくて、名前でああってなった」  中学を卒業して以来初めて顔を見るのであれば、すぐにはわからないだろう。女性は垢抜けるし、見合い写真はきっと美しく着飾っているだろうから……晃嗣は考えながら、落ち着かない気分になる。十数年ぶりに見た同級生の写真は、朔の心を動かしたのだろうか?  女性側は年齢的に、話を進めたがるに違いなかった。晃嗣はもやもやしながら、当たり障りない言葉を探す。 「よく考えて、受けるかどうか決めてください。結婚は誰かのためにするものではないということは忘れずに」  メッセージを送信して、微かに鼻の奥に痛みを感じた。見合いなんかやめておけとはっきり言いたいが、逆に朔を苦しめることになるかもしれない。いや、そもそもそんなことを彼に命じる権限が、晃嗣には無い。 「ありがとう、課長に勧められたのでこちらに一泊して明日帰ります」  朔がそう返してきて、やり取りは止まった。晃嗣は涙が出そうになるのを堪えている自分に気づいて、それが前の会社で退職願を作った時以来だということに思い当たる。  恋人ごっこの終幕を、晃嗣は覚悟せざるを得なかった。

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