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12月 6 ①
後輩たちの定期演奏会当日、晃嗣は定時で会社を後にした。同じパートの出演者たちへの差し入れを頼まれていたので、帰って着替える時間の余裕は無かった。東京駅構内でお菓子を見繕い、混雑した電車に揺られて最寄り駅の新小岩に着いた。人混みに流されて改札口まで進むと、目と鼻の先に朔の背中を見つけた。同じ電車だったようだ。
一瞬躊躇ったが、キャメル色のコートの背中に声をかけた。タートルネックのセーターに緩くマフラーを巻いた朔はくるりと振り返り、マスクの上の目を嬉しげに細めた。
「柴田さんこんばんは、今日もご指名ありがとうございます」
朔はバスロータリーで人の波を避けて、晃嗣に頭を下げた。こうしてスタッフとして彼に接されると、優越感のようなものは否めないが、気恥ずかしく複雑な気持ちになる。
「あ、いいよ、そんな……俺の都合につき合わせるだけなんだから」
「いえ、そういう訳にはいきませんよ……バス来てますね、寒いから行きましょう」
朔に言われて、晃嗣も慌ててそちらに向かう。いつも使うホールが駅からやや遠いのが、吹奏楽部のOBに二の足を踏ませる原因でもある。しかし広い舞台が必要な学生の音楽団体が、利用料金的に折り合いをつけられるホールは、都内でもそう沢山存在しない。
「指名の時間の少し前から会ってしまったら、終わるのも前倒しかな」
晃嗣はそこそこ混雑したバスの中で、朔に尋ねた。それはいいです、と彼は笑った。
「待ち合わせはあくまでもホールに7時ですからね、これはたまたま出会っただけ」
こういった部分は、おそらくスタッフの裁量に任されているのだろう。いくら顔が綺麗でも、ぼんやりしている人には、このクラブのスタッフは務まらないのだ。
バスに乗っていた半分の客が、ホールに近いバス停で降りた。皆がそこからぞろぞろと列をなし、冷たい空気の中を急いでホールに向かう。
「わ、沢山お客様来てますね」
朔は驚いたようである。開演10分前で、客が一斉に扉に向かっていた。実際ホールに収まれば、そんな大人数ではないだろう。舞台が広いホールは席数も多く、アマチュアの吹奏楽団が満席にするのは難しい。
「開演が近いからだ、そんなに多くないと思う」
晃嗣は招待状を鞄から出して、受付をしている学生らしき女性に手渡す。入場は無料だが、OBに配布される招待状を持っていくと、芳名録に記名しないといけない。
「柴田さん、お菓子の紙袋持ちますよ……これ、差し入れですか?」
「うん、悪い」
晃嗣と朔のやり取りを見ていた若い女性は、後ろのテーブルに手を向けながら、プレゼントでしたらあちらで預かります、とぎこちなく説明した。
「僕持って行きます、相手のお名前は?」
「あ……じゃあサックスパートの皆様って書いておいて」
朔には任せておけるという確信があったので、晃嗣は彼の背中に少し視線をやってから、手の中の筆ペンに集中する。
隣のテーブルで任意の寄附金を渡さなければいけなかったので、朔を少し待たせてからホールの中に入る。客席は満席ではないものの、まんべんなく埋まっていて、晃嗣は後輩たちが頑張って集客したことに少し感動した。後方の真ん中寄りの席に、朔と並んで座る。
「音がでかいし、最後のマーチングドリルはここからのほうが、動きが見えて面白いよ」
「へぇ……これ、プログラムも部員が作るんですか?」
「うん、原稿と編集から校正までする」
朔が興味を持って接してくれるのが嬉しい。明らかにときめいている自分に、晃嗣はこれではいけないなと思うが、今夜何らかのけじめをつけなくてはいけないという決心が、純粋な楽しさに押し流される。もう既に晃嗣にとって、朔との時間のほとんどが恋愛ごっこではなかった。
ホールが暗くなり、舞台に照明が入った。正装した演者が楽器を持って、舞台袖から一人ずつ現れると、客席のざわめきがすっと引く。
かっこいいなぁ、と呟いた朔は、サキソフォンを持つ男女が登場すると、晃嗣の腕を肘で突いてきた。
「柴田さん、サックスってあんないろんな大きさあるの?」
「え? そうだよ、バリトンサックスなんかあまり見ないかな」
晃嗣は長くて大きな金色のサキソフォンを抱えた男子学生を、胸元で指差した。
「柴田さんが吹いてたのは?」
「俺は真ん中の大きさのやつ、テナーサックス」
「そっか……あの一番端に座ってる女の子、小さいサックスともうひとつ持ってるけど」
朔は三列目の中ほどで、ホルンとの境目に座る女子学生を示す。彼女はアルトサックスを持ち、銀色のラッパ状の楽器を、椅子の脇のスタンドに立てていた。
「あれはソプラノサックス、ベルが曲がってないけど一番高い音が出るサックスなんだ、あの子はたぶん曲によってアルトとソプラノを持ち替えるよ」
凄い、と朔は感心した声をマスクの中で立てた。メンバーの全員が定位置につくと、指揮者が登場し、拍手が起こった。
晃嗣は、若い頃のこの瞬間の緊張感と、その倍の高揚感を思い出す。これが好きで、忘れられなくて、音楽をずっと続けていたり、再開したりしている友人がいる。晃嗣もふと、何故この大脳に刻まれた快感を手放してしまったのだろうと思う。そんな自分の横顔を、朔が見つめていることには気づかなかった。
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