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12月 6 ②
3部構成の演奏会の最後は、チアリーディング部が助演するマーチングドリルだった。歩き回り音楽を奏でる演者の前で、ポンポンを持つ女の子が跳び回り、大きな旗が揺れる。金管楽器が大音量で聴覚を叩いた。シンフォニックな1部や、クリスマスソングを交えたポップな2部とは違い、客席から口笛や掛け声が響いて、軽くお祭り騒ぎになる。他大学の吹奏楽部員や卒部生が、出演者にエールを送るのだ。
少しくらい話しても、誰も咎めなくなるので、朔が驚いて言った。
「これ何、めちゃくちゃ面白い」
「演ったらもっと面白いよ、大学の吹奏楽連盟があって、合同演奏会のドリルはもっと迫力がある」
「それ観たいし、こんなとこに柴田さんが混じってたってのが信じられない」
実は晃嗣は、かなりマニアックになる3部は観ずに、朔との駅前での食事の時間に充てようと思っていた。だが客席にいた同期夫婦に見つかってしまい、ホールを出るタイミングを逸したのだった。
それだけに、朔が楽しんでくれているのは有り難かった。最後に出演者全員が舞台に上がりポーズを決め、トランペットの高らかな音とドラムの重い響きで曲が結ばれた。ホールの中が大きな拍手と歓声に満たされる。猛練習の跡が感じられる演奏に晃嗣は胸を熱くしたが、隣で朔が一生懸命手を叩く姿にも感激してしまった。
アンコール曲も最後まで聴いて、晃嗣は朔と早目に席を立った。さっきは同僚たちから朔のことを根掘り葉掘り訊かれなかったが、今誰かに捕まると面倒だ。それにバスが混み、もし乗ることができなくなると、朔を指名した時間を無駄にしてしまう。
ホールから出て早足で歩き、バス停が近づいたところでバスが背後からやってきた。晃嗣は朔と並んで停留所まで小走りになり、そのバスに乗り込む。
「よかった、次のバスだとすし詰めになるところだった」
学生時代はホール入りする時も終演後も、天気が良ければ駅まで歩いた。テナーサックスは手持ちにはやや大きいのだが、楽器運搬用の車には積んでもらえないことのほうが多かった。しかし徒歩移動は、フルートやクラリネット、それにトランペットといった、普段接することの少ない、他のパートの他学年の者とも話せる機会になった。
そう話すと朔は、歩いてもよかったのに、と言った。
「そんなに遠くないし……歩きながら話すって、割と内容深まるんですよね」
「そうかなぁ」
駅前まで戻り、念のために予約をしておいた焼き鳥中心の個室居酒屋に向かった。問い合わせると、アレルギー食材に関する情報をメニューに載せているとすぐに返事をくれたのが、好印象だった。
1杯目は生ビールを頼んだが、寒いので熱燗を、焼き鳥の盛り合わせやサラダなどと一緒にオーダーした。朔がお猪口に酒を注いでくれる。
「みんなで音楽するの楽しそうですね、特に水泳なんかは個人競技だから、ああいう感じは無かった」
晃嗣はそんな風に言う朔の良い声に、微かな孤独感を感じ取った。中学生の頃から、学校の周りの人と自分とは、置かれた環境が何か違うと感じていたのかもしれない。
「沢山の人間が同じことをするのは、独特の厭わしさがあるけどね……どうしても個人の上手い下手がつっかえてくるし」
「一人で吹く部分をオーディションしたりとか?」
「うちはしないけど、するところもあるみたいだよ……部員が多くてレベルが高いとこは、1軍と2軍に分けるらしいし、スポーツでレギュラー争いするのと一緒だな」
厳しいんですね、と朔は頷く。アマチュアの部活だって、真剣になればなるほど、楽しいことばかりではなくなる。
「でも厳しかったり辛かったりもするから、楽しいことも際立つんですよね」
朔の言う通りだと晃嗣は思う。彼は酒のせいか、暖かい店内のせいなのか、頬をほんのりと赤くしていた。
「柴田さん、あのさ……ここしばらく考えてたことなんだけど……」
うん、と晃嗣はつくねを串から外しながら応じた。
「もう柴田さん、俺に金出してくれなくていいよ」
朔は茶色い澄んだ瞳を、真っ直ぐに晃嗣に向けて、真剣な顔をしていた。どきりとした晃嗣の声は、えっ、と勝手に高いものになった。高揚していた気持ちに、冷たい水がぶちまけられたような気がした。
晃嗣はどくどくと鳴る心臓を宥めようとしたが、次に出た声は鼓動のせいで揺れてしまった。
「……そうか、うん」
歪んだ苦笑になったと思う。ひとつ深呼吸した晃嗣は、自分の勘違いと馬鹿さ加減に笑うしかなかった。
朔に「恋人ごっこ」をやめようと、自分から言い出す場面ばかりシミュレートしていたが、朔にだってやめたいと言う権利がある。金を出していることで、傲慢になっていた自分を、晃嗣は思い知らされる。
晃嗣はつくねを酒で喉に流し込み、言った。
「わかった……でも、パトロヌス制の最短期間の来年2月までは……あんな少しじゃきみの助けにはならないだろうけど、出させてくれないかな」
朔は僅かに眉を寄せた。そんなに嫌悪感を与えていたのかと思うと、ショックで目の前が暗くなりそうだった。腕時計をちらっと見ると、21時15分で、晃嗣が朔を買った時間の終わりまであと15分だ。それまでに話をつけようということらしい。
「だからそれも含めて、これ以上柴田さんに憐れまれるのもきついんだ、それで」
朔は一度言葉を切り、眉間に皺を寄せて続きを探している様子だった。晃嗣はこれまで自分が取ってきた行動が、彼のプライドを傷つけていたと初めて知る。確かに、金を出すのが手助けに繋がるという発想に、傾きがちではあった。反省する気持ちと、自分の好意を受け入れてもらえない苛立ちに、顔が熱くなる。
「ああ、悪かった、ほんとに……俺の勘違いだった、もうこれでやめよう」
晃嗣が俯くと、え? と朔の声が頭から降ってきた。晃嗣は迷ったが、続けた。
「……朔さんがこれまで俺を、ずっと良い気分にさせてくれたことに感謝してるってのは伝えておきたい」
「へ? 柴田さん、ちょっと待って」
顔を上げると、朔が目を見開いていた。明らかに頬を赤くし、戸惑っている。何だ、俺が未練がましく懇願するとでも思っていたのか。
「流石きみは売れっ子スタッフだよ、この2ヶ月、とても楽しかった……お節介ついでにこれだけ最後に言わせてくれ、カムフラージュで女性と結婚する件はよく考えろ、きっと誰一人として幸せになれない」
晃嗣が一気に言うと、朔はぎゅっと唇を引き結んだ。言わなければ良かったと思ったが、彼のこんな子どもっぽい顔は初めて見たので、何処か微笑ましくなった。
腕時計を再度確認して、晃嗣は個室の入り口にぶら下げられた伝票を手に取った。テーブルの上の料理はほぼ平らげられていたが、朔のために少し多めに置いて行こうと考える。クレジットカードで支払うつもりでいたので、財布の中の手持ちは、何とか間に合うほどしか無かった。
「あと一杯くらい飲めると思う、支払い頼むよ……今夜はありがとう、先に出る」
晃嗣は財布から札を全て出し、テーブルの上に置いた。朔はえっ! と小さく叫ぶ。
「待って柴田さん、何か誤解してる、俺の言い方が悪かった」
もう何も聞きたくなかった。晃嗣は慌ててコートに腕を通して、鞄の持ち手を掴む。朔はもう一度柴田さん、と呼んだが、晃嗣は彼のほうを見ないで、逃げるように個室から出た。通りかかった店員に、早口で告げる。
「連れはもう少しゆっくりして帰ります、オーダー聞いてやってください……ご馳走様」
「承知しました、ありがとうございました!」
両手にビールのジョッキを持った若い店員は、マスクをしていてもそうだとわかるような満面の笑顔で応じた。大学生くらいだろうか。学生時代、朔もこんな風に、毎晩居酒屋で酒を運んでいたのだろう。
晃嗣は店を出て、小走りで駅に向かった。すっかり酔いが醒めたのは、冷えた空気のせいだけではなさそうだった。
あっけない幕切れに、頭の中がぐちゃぐちゃになっている自覚があった。悲しいと思っているのに、涙は出ない。改札に駆け込み、息を切らしながら長い階段を昇った晃嗣は、すぐにホームに入ってきた電車にふらりと乗った。立っていることが辛くて、空いた席を探す。
長い楽しい夢を見ていたのが、覚めただけだ。シートに腰を下ろし、呼吸を整える。でも、あちらから言い出してくれて良かったと思う。晃嗣は自分から朔に、場合によって契約の解除を提案する自信が無かった。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。朔からだとわかっていた。晃嗣は小さな振動を手のひらに感じながら、目を閉じて少し上を向く。そうするうちに、ようやく目の奥が熱くなってきたのを感じた。
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