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12月 8 ①
週が明けて、晃嗣はなるべく人事課のフロア、つまり5階から出ないようにして過ごそうと決めていた。社員食堂でうっかり朔と遭遇すると辛いので、昼食も弁当を買って持って行った。それを周囲に珍しいと言われて、意外と自分の行動が同じ課の人間に見られていると気づく。
こんなことなら、朔と最近話すようになったなどと周囲に言わなければよかったと思う。悪気など一切無い課の連中から、「高畑さんとどんな話をするんですか?」などと訊かれたら、きっと泣きそうになる。
朔と定期演奏会を観に行ったことがしきりに思い出されて、日曜日の友人の演奏会もあまり心から楽しめなかった。晃嗣は差し入れのお礼をメッセージで述べてきた友人に申し訳なくて、自己嫌悪に陥った。
退勤時間になり、晃嗣はいつものように、少し残業してからデスク周りを片づけた。トイレに立つと、エレベーターから営業課長の桂山が、ファイルを手に降りてくるのが見えた。
桂山は晃嗣のほうについと寄ってきて、周りに誰もいないのを確かめてから言った。
「柴田さん、その後どうですか? 人気スタッフさんだとクリスマスの指名は難しいと思いますけど、その後なら案外いけますよ」
晃嗣は桂山が明るく言うのを聞いて、堪える間も無く一気に視界が曇ったことに焦った。言葉に詰まった晃嗣に気づいたのか、桂山が軽く覗きこんで来る。
「柴田さん、どうかしましたか?」
「あっ、いえ、何でもないです……」
ごまかし切れなかった。晃嗣が目を押さえたのを見て、桂山は静かに言う。
「これから第6会議室で相談室を開きます、今のところ予約は入ってませんから、退勤してから来てください」
一瞬拒絶に気持ちが傾いたが、そうする気力も無かった。晃嗣は右手の指が熱い水に濡れるのを感じながら、こくんと頷いた。
晃嗣はトイレで涙を拭って部屋に戻り、まだ残っている人事課の数人に挨拶をしてから、そそくさと指示された会議室に向かった。扉をノックしてそっと開けると、小さな部屋には桂山しかいなかった。
「コーヒー淹れますね、まず落ち着きましょうか」
桂山は晃嗣を待っていたかのように、すぐにポットの湯をカップに注ぎ始める。晃嗣は涙が止まると猛烈に恥ずかしくなったが、あの夜から5日経ったというのに、ダメージがほとんど癒えていないことに気づかされる。
「話したくなければ話さなくても構いませんよ……でもたぶん周りに秘密にしてらっしゃるでしょうから、きつい時もありますよね」
良い香りを室内に満たしながら、桂山はコーヒーカップを、座った晃嗣の前に置いた。そして自分もすぐに、コーヒーをブラックのままで飲んだ。
晃嗣はフレッシュを入れ、コーヒーをゆっくり混ぜた。これまで何度朔と一緒にコーヒーを飲んだだろうかなどとふと思い、また泣けそうになった。
「例のスタッフさんから……もう自分に会うのにお金を出さなくていいってばっさり言われてしまって」
晃嗣は桂山に言って、コーヒーをひと口飲んだ。身体の中から温もるのを感じる。今日は一日暖房の効いた部屋にいたのに、何となくずっと薄ら寒かった。
そうでしたか、と桂山は応じた。彼は晃嗣の贔屓のスタッフが、自分の部下だとはおそらく知らない。神崎綾乃は桂山とのつき合いが長いようだが、情報は冷徹なまでにきっちり管理しているようだ。晃嗣は昼間も、そのスタッフと顔を合わせていることを桂山に悟られないよう、注意しながらかいつまんで話す。
「私が彼に同情して、少しプライベートに踏み込みすぎたのかもしれません……鬱陶しがられたようです、本人は誤解だと話してるって神崎さんから言われたんですけれど」
黙って晃嗣の話を聞いていた桂山は、うーん、と疑問のニュアンスを醸し出す。
「神崎さんが電話してきたんですね? 彼女がスタッフをとりなす風だったということですか?」
「はい、彼と話をしてやってほしいと言われて……返事に困ってたらすぐに収めてくれました」
晃嗣は落ち着かなくなり、コーヒーカップに手を伸ばす。桂山は何か言いたげである。
「お話を聞いて私が感じたのは……あの店のスタッフが客に面と向かって鬱陶しいとは言わないんじゃないかってことです、仮に彼らが客に不快感を抱いたとして、神崎さんが代わりに伝えてくるならわかるんですが」
晃嗣はそれもそうだと思った。しかし桂山は知らないが、晃嗣と朔の関係は、普通の客とスタッフとはおそらく少し違う。
「……もういいんです、恋人ごっこにのめり込み過ぎました……思ったよりダメージが大きかったみたいで、情けない話です……話を聞いて貰って少し楽になりました」
晃嗣は話を終わらせる方向に持って行こうとしたが、桂山はゆっくり瞬き、微笑する。
「柴田さんがもうこの件に関してあまり考えたくないと思ってらっしゃるのは良くわかるんですけど……あの店の元スタッフを連れ合いにしてる身から、少々伝えたいことがあります」
桂山はその口調に、嫌ならいいけれど聞かないと損をするかもね、といったニュアンスを込めていた。朔との関係をこれ以上どうこうする気はないけれど、親身になってくれているので、聞くくらいいいか。そう思ってしまった晃嗣は、元営業マンとしてはやはり、この会社のトップセールスには敵わなかった。
「たぶん柴田さんの贔屓のスタッフは、ほぼ反対の意味を伝えたかったんじゃないかと思うんですよね……あの店のスタッフは皆賢いので、客を大事に思うが故に婉曲表現を使う傾向がある気がします」
「婉曲、ですか?」
晃嗣がつい訊き返すと、桂山はにっこり笑う。
「私のパートナーが、昔全く同じことを私に言ったんです……もう自分に会うのにお金を使わなくていいと」
え、と思わず晃嗣は言った。思い返せばあの時、朔は茶色い瞳に真剣な光を湛えていた。そこに自分に対する嫌悪感や拒絶を感じなかっただけに、後の展開に余計に混乱した部分はあった。
「つまり彼は、私のものだけになりたいと言ってくれたんですよ、金銭で結ばれた関係ではなく」
桂山の言葉に、晃嗣は困惑してつい下を向いた。確かに……そう取れないことはなかった。いや、と晃嗣は自分を戒める。桂山のパートナーがそうであったとしても、朔もそうだという根拠にはならない。
「桂山さんのパートナーさんとは違うでしょう、憐れまれるのはきついとも彼は言いました、誤解だと最初言ってきたけどすぐに連絡も途絶えたから……もう終わったと見做されたに違いない」
「何を憐れんだんですか?」
「彼は……その、いろいろ大変なんです、彼が家族のために自分を犠牲にしているという印象を受けました、それで……金銭的な援助を考えて」
晃嗣は自分の話が桂山に朔を連想させないよう、大まかに語ることに腐心した。桂山は微笑の中に、それこそ晃嗣への憐憫のようなものを混じらせる。
「パトロヌス制に参加したんですね?」
「はい」
桂山の問いに晃嗣は消え入りそうな声で返答する。あんなものに申し込まなければよかったと、心底悔やんでいた。
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