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12月 10 ③

 朔は桂山を半ば引きずりながらこちらにやって来た。晃嗣はほとんど金縛りに遭ったような状態で、本当にどうすればいいのかわからず、その場に立ち尽くしていた。  ふらふらと近寄って来て自分を見つめる朔の目は、潤んでいた。それを見た晃嗣は、彼も自分と同じくらい、あるいは自分以上に、あの夜の出来事に傷ついていたと知る。……誤解を解かせてやるべきだった。  朔は桂山の手をゆっくり振りほどき、晃嗣に向かって腕を伸ばしてくる。 「あー柴田さん好き……」  そんな声とともに、晃嗣は朔の腕の中に取り込まれた。冷たい冬の空気の匂いがする。彼のコートが含む冷気が服越しに伝わってきたが、酒のせいで体温が上がっているのだろう、こめかみに触れた彼の頬は熱いくらいだった。晃嗣は人目も忘れて、しばしその温度に溺れた。胸の中が熱くなる。  ええっ! という女子社員たちの声が聞こえて、おおっ⁉︎ と驚く男たちの声が、歓声に変わる。晃嗣は我に返り、恥ずかしくいたたまれなくなったが、朔が完全に体重をこちらに預けていて、身動きが取れない。  それでも、抱きついてきた男が愛おしく思えたのは確かだった。自分の心臓の音を耳の中で聴きながら、晃嗣はそっと朔の背中に手を回し、軽く叩いた。 「うん、よくやった、お疲れさま」  朔は腕の力を強めてきた。少し苦しいくらいである。酒の匂いも仄かにしている辺り、本当に取引先の社長に飲まされたのだろう。 「俺っ、柴田さんのことっ、ずーっと好きだったから……」  朔は晃嗣にだけ聞こえる声で、途切れ途切れに言う。ずっととはまた大げさだなと思ったが、目の奥が熱くなってきたので困った。  桂山が笑いながら朔の肩を軽く叩いた。 「柴田さん困ってるから後にしろ、何か食べないか? 今年の料理は美味いぞ」  朔は晃嗣を抱いたまま、ぱっと顔を上げたが、その赤い頬は涙で濡れていた。彼はこともあろうに、上司に向かって暴言を吐く。 「課長、邪魔しないでください、俺は愛しい人をこの手に抱いてるんですっ!」  爆笑が起こり、口笛が鳴った。これは冗談と受け取られているのだろうか? 晃嗣は困惑を通り越してほとんど諦念に囚われていたが、朔は大声で言う。 「いいですか皆さん、俺が好きなのはこうちゃんだけなんで、これから本気の交際を求めてる女の人を俺に紹介するのはやめてくださいっ! あと、こうちゃんに変な気を起こす奴はっ、男でも女でも殴ります!」  皆が手を叩きながら笑う。あ然としている者はおそらく、朔の言葉をカミングアウトと捉えて驚いているのだろうが、腹を抱えて笑っている者は、酔った上での朔の冗談だと受け止めている様子だ。 「朔さん、わかったから座ろう、食べられそう? 料理ほんとに美味しいし」  晃嗣はとにかく朔の腕から逃れるべく、彼に話しかけた。あ? と朔は首を傾げる。 「何言ってんのこうちゃん、もう遅いから俺ん家に帰ろ?」 「まだ8時過ぎだ、プレゼント交換するまで俺は帰らないぞ、それに朔さんの家には行かないよ」  ふたりのやり取りに周囲の笑いが止まらない。晃嗣は羞恥に塗れながら朔の腕を何とか引き剥がして、桂山と一緒に彼を引きずっていき、椅子に座らせた。手島が料理を取り分けた皿を持ってきてくれる。 「さっくんが酔うとこんなになるって知りませんでした」 「信じて貰えないかもしれないけど、私も知らなかったです」  晃嗣は手島に応じながら、朔のコートを脱がせる。世話のかかるスタッフだ、神崎さんに苦情を言おう。  朔は手島から皿と割り箸を手渡されて、大人しく寿司を食べ始めた。別の社員が、緑茶の入った紙コップを持って来てくれる。朔は課で愛されているのだなと、晃嗣は微笑ましくなった。 「えっと……柴田さんがさっくんと仲がいいというのは、同性愛的に?」  花谷が新しい紙コップにビールをなみなみと注ぎ、晃嗣に差し出した。それを受け取り、ああ、何というか、と言葉を探す。 「いや、柴田さんのことは僕あまり知らないですけど、高畑がゲイなら割といろいろしっくりくるんです」  桂山は口を出さずに、朔が食事をするのを気にかけつつ、自分たちを見守っている。ああそうか、と思う。課長がオープンなゲイであるということが、この課の部下に良い影響を与えているのだ。花谷の表情や口調には、晃嗣への嫌悪感や過剰な好奇心は見られなかった。 「……少なくとも私はゲイで、高畑さんは好みのタイプなんです」  晃嗣はこんな言葉をするりと口にした自分に驚いたが、それを聞いた花谷は、少し目を見開き微笑した。 「そうでしたか、僕的には柴田さんが男が好きってほうが意外でした……さっくんは女にモテるんですけど、適当にあしらうのに慣れてるんですよね、だから」  花谷の言葉が耳に入ったのか、何すか? と朔が椅子に座ったまま言った。先輩に対する態度とは思えず、晃嗣はつい軽く朔を睨んだ。朔は箸を手に、悲しげに言う。 「ふぁっ、こうちゃん何で怒ってるの?」 「酔って先輩に礼を失するな、無礼講なんて言葉は営業は間に受けちゃだめだ」  これには晃嗣が、桂山と花谷からまあまあ、と宥められた。 「柴田さんが硬派なのに驚く……」  そんな声まで耳に入ってきて、晃嗣はもう何もかもがどうでもよくなる。ネガティブな意味ではない。自分の性的指向や、その延長上に朔に恋をしていることなど、この場ではありふれた話なのだ。今は、朔がゲイ専デリヘルで副業をしていることだけが、死守すべき秘密だ(どうも桂山にはバレているようだが)。 「では出席者が全員揃ったところで、昨年大不評だったプレゼント交換会を、今年も始めたいと思いまーす!」  男女の社員がマイク無しでアナウンスしたにもかかわらず、室内はわっと盛り上がった。桂山は柴田に朔を託して、泣いているらしい若い社員のもとに行った。 「あの子この春入社の新卒なんだけど、酒が入るとホームシックになるんだ」  朔は晃嗣に説明した。晃嗣も、ハンカチで目を拭う男子社員を、桂山が周りの社員たちとともに慰めるのを見つめる。

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