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12月 11 ②

「感染症の嫌なムードが消えてきたら辞めようと思って、タイミング測ってたんだ、ディレット・マルティールのさくはコロナの徒花だから」 「徒花?」 「そう、大事な人と会えなくなったり仕事にストップかけられたりして、辛い思いをしている人のために『さく』は存在するの」  そんなポリシーのようなものを持ち、朔があの仕事に臨んでいるとは思わなかった。晃嗣は素直に感心する。 「かっこいいな」 「だよね?」  朔の口許の笑いは、悪戯っぽいものに変わった。 「まだ世の中すっきりしないけどね……来年度始まる新しい企画に参加させて貰えることになったし、集中したい」  朔が倒れた時に桂山がこの部屋に持参した書類は、そのプロジェクトに関するものだったらしい。株式会社エリカワは、大手家電メーカーとコラボレーションした新商品の開発と販売を決定し、企画部と営業部が動き始めている。 「柴田さん、営業に戻らない?」  出し抜けに言われて、晃嗣はコーヒーに噎せそうになった。2度咳をして、呼吸を整える。 「なっ……人事で課長補にして貰えそうなのに、今更営業しないよ」  晃嗣が言うと、そっか、と朔は唇を尖らせた。こんな顔をすると彼はやや幼く見え、やはり年下だなと思えて可愛らしい。 「……俺さ、柴田さん見て営業してみたいと思ったの」 「……は?」  晃嗣は朔から次々と気持ちのいい言葉を聞かされ、脳内が何かに冒されて自分の理解力が低下したのかと思った。朔はしかし、真面目な顔で昔話を始めた。  晃嗣が以前勤めていた会社の就職説明会に、大学4回生の時に参加した。電車を乗り間違え、時間ぎりぎりになってしまい焦っていると、会社の建物の前で、杖をついて歩いていた女性が突然倒れた。助けなくては、でも彼女にかかわっていると遅刻する。 「躊躇ってる俺の横をすり抜けて行ったのが、柴田さんだった」  朔の話に、晃嗣の記憶の重い蓋がゆっくりと持ち上がる。前の会社にかかわる思い出は、意識的に封印してきた。悪い記憶にほとんどが上書きされてしまったからだった。  しかし朔の話に出てきた年配の女性を、晃嗣が忘れることはなかった。毎日毎日嫌なことばかり続いていた日々の中で、爽やかな印象を残した出来事だったからである。  ある日、営業から帰ってきた時のことだった。会社の前を歩いていた女性が、段差に躓いて転んだ。晃嗣が驚いて駆け寄ると、彼女は額を切っていて、自分の出血に驚き失神してしまった。救急車を呼んだが女性の命に別状はなく、彼女は後日、元気な姿で会社に礼を言いに来てくれた。  そう言えばあの時、スーツに着られている若い男の子が駆け寄ってきた覚えがある。彼も、顔の左半分を血で汚した女性を見て狼狽えていた。その日会社で新卒向けの大規模な説明会があると思い出した晃嗣は、説明会に遅刻するから急いで行けと、彼に言った――。 「あの子が朔さんだったのか?」 「そう……それが俺」  晃嗣の問いを、朔は静かに肯定した。晃嗣はあ然として、しばし彼の茶色い瞳を見つめる。 「それでどうして朔さんが営業をしようと思うんだ、俺は当たり前に人を助けただけで」 「営業のしばただってあの時名乗ってくれたんだよ、だからこの会社で営業を希望したら、柴田さんが先輩になってくれるのかと思って……」  朔の話に、晃嗣はびくりと肩を震わせた。まさか……晃嗣の全身を満たしていた甘ったるい喜びが、一瞬にして毛穴から霧散してしまった気がした。 「……朔さんがエリカワに就職する前に1年だけ勤めてたのって、あの会社なのか?」 「そうだよ……営業部に配属して貰った、でも柴田さんはもういなかった」  晃嗣は頭の中が真っ白になるのを感じた。では朔は、俺があの会社を何故辞める羽目になったのか、先輩連中から聞いたに違いない。  それは晃嗣にとっては、朔に一番知られたくない、自分史上最悪の汚点だった。上司に陥れられ、同僚や部下を守ることも出来ず、尻尾を巻いて逃げ出すしか無かった、あの時の弱い自分。  全てに対して甘かったのだ。あの陰険な上司の自分に対する悪意に気づいていたのに、信じようとした。取引先の連中なんて所詮赤の他人なのに、信じてほしいなどと考えた。  晃嗣はふらりと立ち上がった。今度こそ本当に、いたたまれなくて消えてしまいたかった。晃嗣の様子がおかしくなったことに気づいた朔が、椅子から腰を浮かせる。 「どうしたの柴田さん、顔色悪いよ……トイレ行ったほうがいい?」 「ごめん朔さん、やっぱり帰る」 「えっ! どうして!」  朔は立ち上がり、テーブルを離れようとする晃嗣の行く手を遮る位置取りをした。 「待って、ほんとにどうしたんだよ、俺何か悪いこと言った?」  もうめちゃくちゃだ。酔った勢いで朔が抱きついてきて、営業課の連中にゲイバレして、朔の家までついてきてしまって、黒歴史を知られた。いや……朔が晃嗣の恥ずべき過去を知った上で、ずっと接してくれていたなんて。  晃嗣は耐え切れず、両手で顔を覆ってその場に座りこんだ。両目から熱い水が噴き出し、勝手に嗚咽が洩れた。 「柴田さん! どうしたんだ、気分が悪いのか」  朔もかがみこんできて、晃嗣の肩を両手でしっかり掴む。それは6年前、おろおろしながら近づいてきた大学生の手ではなかった。営業マンとしてはもうとっくに、自分を超えた男の手。 「どうして……」  晃嗣は掌で涙を拭いながら言う。 「あの会社で営業やってたことを黙ってたんだ、俺がどうして辞めたのか聞いたんだろう?」  頭の上から朔の戸惑った声が降ってくる。 「隠すつもりは無かったけど、何かストーカーみたいだから言い出せなかったのはある、あっ、でもエリカワに柴田さんがいることはほんとに知らなかったんだ」 「俺は前の会社のことは知られたくなかったのに……あんなこと……」  また涙が溢れてきて、晃嗣は我慢できなくなり、声を上げて泣いた。裸になった時はみっともなくても、普段は少しくらい、朔の前で良い格好をしていたかった。だって自分は、彼より5つも年上なのだから。

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