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10過去の思い出

「……初めてイリゼと関わった時、俺は川に飛び込んで頭を打って溺れかけたところをあいつに助けられた。その時に、意識は朦朧としていたが……。俺を看病するイリゼの背中から光の蝶々の羽みたいなものが出てきて、何度も何度も俺を扇いだ。綺麗だったな……。ひらひらと。細かい光の粉のようなものが降り注いで、俺の中に染みこんできた。身体の中にあいつの無尽蔵の力と優しさを感じた。夢の中みたいな光景だった」  あのとき。身体中、ぬるま湯にでも使ったようなじんわりと温かな力で満たされ、文字通り叩き割られたような頭の痛みも急速に引いていった。  実は命を落とす手前の、とんでもない大怪我だったのだ。  柳の木から浅い川に飛び込んだダイは川底で石に頭を打ち付け、血が川を染めるほどの事故を起こした。一緒に遊んでいた子供たちは半狂乱になって喚きながら蜘蛛の子散らすように逃げていった。幼いダイは今まで経験したことがない程の頭の痛みとどんどん流れ出す血、冷たい川の水に身体中の熱を奪われガタガタと震えながら、自らの死を覚悟した。  そんな中、外の騒ぎに気がついたイリゼは川に分け入り、ずぶ濡れになりながら半ば頭がザクロのように割れたダイを背負って家まで連れ帰ってくれたのだ。  どのくらい時間が経ったのかは分からない。  イリゼの家に運び込まれてすぐだったのか大分後だったのか。うっすらと開いた目に飛び込んできたのは、まるで神が使わしてくれたような聖なる光を纏った少年の穏やかで美しい微笑み。  ああ、自分はもう死んで、ここはもう空の上にあるという神々の世界なのだとダイは思った。だから朦朧とした意識の中で「俺は死んだのか?」と呟いた。  イリゼはふっくらと柔らかな手でダイの頬を包むように触ると、耳触りがふんわりと優しい甘い声で呼びかけてきた。 「だいじょうぶだよ。死んだりしないよ。君はきらきらと眩い。命の耀きそのものだもの。沢山長生きして欲しいんだ。俺は君のこと、前から知ってるよ。大勢の友達と街中を駆けまわっていていつもすごく楽しそうだ。君と一緒に俺も街を走ってみたい、仲間の輪の中に入ってみたいって思っていたんだ。だから君とこうしていられるのが夢みたいに嬉しい。早く良くなって、また元気に遊ぶ姿をみせてね」  なんて甘く優しい声、なんて慈愛に満ちた言葉。  多分あの時、ダイは本来ならば命を落としていた。しかし死にかけたダイに魔力を流し込み生き永らえさせたのは、ほかでもないイリゼだった。 (温かい……。気持ちいい……。ありがとう……。また起き上がれたなら。俺は今度は、君の為に生きたい)  そう強く思ったダイは涙が滲むのを止められず、しかし力尽きてそのまま眠ってしまった。  気がついたらもう家に帰っていて、涙を浮かべながら看病してくれていた母親に心配そうに覗き込まれていた。街はずれにある店の店主の女性がダイの家まで家族を呼びに来てくれたのだそうだ。 「あのうちに男の子はいなかった?? 」 「どうだったかな」  父は何か知っている素振りだったが話してはくれず、そのまま街の中心部から離れた地域に子供だけで勝手に行くことは禁じられてしまった。大きくなってからは何度か店を探しに行ったが、見つけられなかった上に父からはその店を探すことを何故か反対され、終いには「お前の探している店はもうないはずだから、探しても無駄だ」と釘を刺された。 (思うにあれは……。父は家の言い伝えであの店と深くかかわることを良しとしないと知っていたのだろう)  だから友人から良い魔法薬を売る店があると聞いた時には拍子抜けして耳を疑った。そしてイリゼと無事再会することができたのだ。  再会したイリゼはあの頃よりは少し成長しているように見えたが、それでもまだ見た目の年は十代だったダイと大して変わらなかった。あの魔法の力の作用なのか分からなかったが、それよりもイリゼがさも初対面のように接してきて、ダイのことを覚えていない風だったことには内心傷ついた。それが悔しくてダイも初めて彼と会ったかのような演技をしたのだ。 (俺がずっとお前のことを探していただなんて、お前は知りもしないんだろうな)  折しも学業と近衛騎士団への入団を目指して王都に赴く直前だったが、年齢的にもイリゼとちょうど釣り合っていたこともあり、ダイは彼に夢中になった。  何にも染まっていない真っ新な布のようなイリゼは普通の少年たちがするような街歩き一つにしても、何を食べても、おっかなびっくりで他愛ないことで良く笑う。見た目も言動も普通の少年と変わらないのに、魔法薬を作る腕は街一番だと思えるほどで、ダイもその恩恵にあずかれた。 「これはね……。好きな相手に自分を良く見せる薬」  そんな風に言って花々を中に閉じ込めたような綺麗な色合いの小瓶を傾けながらイリゼが頬を赤らめた。そのままダイの方を恥ずかしそうに上目づかいで見上げてきたから、思わせぶりなその様子に彼が自らそれを試して自分を見つめてくれているのかと有頂天になるほど本当に煌いて可愛らしかった。  堪らなくなって思わず口づけをしたから、イリゼは驚いて小瓶を倒した。イリゼの真っ白な服の袖が薄い薔薇色に染まり、腕まくりしたその真っ白な二の腕の嫋やかな細さを見て、どうしようもない情動を覚えてしまった。 「俺が王都から帰ってくるまで、待っていてくれ」  そんな風に懇願したと思う。絡めた指にきゅっと力を込めて抱き着いてきてくれたイリゼが健気で、愛おしくて仕方なかった。  以前から初恋は実らないものだと幼馴染から馬鹿にされていたが、絶対にそんなことはない、必ずイリゼは自分の帰りを待っていてくれると信じていた。しかし幼馴染と共に都に出立してからおかしなことに気がついた。魔道具店を紹介してくれたはずの幼馴染が、店のこともイリゼのこともまるで覚えていなかったのだ。そしてダイだけが、イリゼのことを忘れずに覚えて居られたのだ。    イリゼとの馴れ初めを祖母に事細かく話すという恥ずかしい行為をさせられ、長年の謎だった忘却の魔法が効かぬ理由をシエルに求めたのに歯切れの良い答えは出ない。 「まあそうでしょうね? 普通の人間は忘れてしまうのよ。だってそういう魔法を私があの街にかけたのだから。覚えているお前の方がおかしいのよ。考えられるのは、イリゼが直接魔法を使うところを見たからかもね。それともなくば、私の血を薄くとも引いているから?」 「愛の力だ」  ダイが真面目な顔をしてそんなことを言い放つから、シエルは目をまん丸にしてけして上品とは言えない大口を開けてけらけらと笑う。 「ふはははっ。あんた面白いわね。そういえば忘れていたけど、バシフィスも愉快な男だったわね。私の正体を知っても狼狽えなかったし、妻になってくれてしつこくて。でも戦いが終わって私が王都に帰る時に、あいつ。ついてきてはくれなかった」 「……正確には貴女があの街に留まってはくれなかったんでしょう? 産んだ我が子を指輪と共にバシフィスに託していこうとした。あの指輪はバシフィスに貴女があげたものだ。そうだろう? 彼に永遠の生を一緒に生きて欲しかったから」 「……振られたのよ、いいでしょ。古傷を抉るような男は嫌われるわよ」  ぷいっと子供じみた表情を見せてそっぽを向いた姿は少しイリゼを想わせてダイは微笑んだ。 「振られてませんよ。バシフィスはね、故郷を捨ててまで貴女について行ってあげなかったことを後悔していた。手記にそう書いてありましたよ。子どもたちが成人したらその指輪をもって……年は取ってしまったけれど貴女と共に生きようとしていたんだ。だが病に侵されて、その前に亡くなった」 「……馬鹿だわよ。私をもっと早く呼んでれば病気だって癒してやったのに」 「それは彼の、最後の意地だったのでは? 好きな女に弱った姿を見せたい男はいないでしょう?」  シエルは長い睫毛を反らせるほど見開いてから真っ赤な髪を後ろにバサッと振り、またぷうっと膨れる。 「ふんっ」 (イリゼに似た瞳。イリゼと似た表情。……俺は間違えない) 「俺はイリゼを選ぶ。だから貴女の指輪を、俺に下さい」  素直に頭を下げたダイの赤毛に、シエルはまた別の青年の面影も感じて情に絆されそうになった。イリゼの母が、お人好しな息子をいつでも気にかけ、たまに魔法薬の薬草を差し入れたりしている父方の一族に見張らせていることは知っていた。しかしいい加減子離れしなさいと思いつつも結局は自分も、各地に散らばった子孫たちの行方を気まぐれに追いかけてはついつい手助けをしてしまう。 「ねえ? 勘違いしてるでしょ? バシフィスにあげたのは私の指輪の方よ。私が持っている方がバシフィスの指輪」 「……そうなのか?」 「ふふふ。何でも知ってるつもりでも、知らないことも沢山あるのよ? 坊や。もっとも、そもそもこの国の最初の王様の持ってた指輪なのだけどね。彼は私の年の離れた弟。病気がちだったあの子のために、私が生命力を分けてあげてたの。そのために作られた指輪だったのよ。あの子は普通の人間で天寿を全うしたから、それからは私が持っていた」 (やはり、この指輪は権力者の為に作られたのではなかった。そもそもの理由は家族を思う愛から生まれたんだ)  シエルはついに優しい母の顔をして微笑んだ。そしてジャラジャラと首に着けていた魔法石をあしらった豪華絢爛なネックレスに通していた、一つだけ、やや古ぼけた指輪を取り出して指先から魔力を通す。  それだけで指輪は黄金のきらめきを取り戻し、イリゼがしている指輪と同じ色の同じぐらいに大きな石が赤々と光を反射した。  指先でつまんだ指輪をダイの方に差し出しながら、二人の頭の上にびりびりびりっとまた火花が頭の上に散り落ちる。 「でも、あの子が真実、お前と一緒にいたくないと思ったら、逆にこの石に命が吸われるわよ? それでもいいのなら試してごらんなさい」 「脅したって無駄です。俺は諦めない」 「あの街の方で大きな魔力が動いた気配がしたから、イリゼはあんたを切る覚悟をしてるってことね? それでもいいの? ふふ。お前に忘れられてるって思ってる、あの子の心をまた取り戻せるの?」 「取り戻すも何も、もとよりあいつは俺のもの。俺の全ては、あいつのものだ」  そんな彼女の目の前で、ダイは指輪を指先からもぎ取り、肩をいからせ双眸に力を漲らせるとシエルをねめつけたまま、迷いもなくその指輪を右手の薬指に着けて見せた。  つけた瞬間、命を奪われるかと思ったがそういうわけでもないようだ。  対の指輪と同じようにまるで焔を閉じ込めたような色合いの石が、ただ静かにダイの右の薬指にぴったりと納まる。  赤いドレスから白い脚を踏み出した女はほっそりした指先を口元に当てて満足げに笑う。 「ふふふ……。イリゼわね。今まで私が産み出した子たちの中でもうんと魔力が強い方だわ。その気になれば何でもできるから、敢えて教えていないことも沢山あるの。だからこそ母親はあの子を柔和で優美で心根の優しい子に育てた。本来なら、あれほどの魔力を持つものが欲深く欲しい欲しいとなんでも求めたら、この国一つじゃまかなえっこないわ。生きとし生けるものに感謝して、多くを欲しがらずあの街の中で魔力を持たぬものために尽くすようにってね。倹しく清く生きてきたのよ。そんなあの子がたった一つ欲しがったのがお前なのだから、お前はけっして、純真なあの子を裏切っては駄目よ。裏切ったら……」 「あの街がなくなるとでもいうのか? 」  冗談を言ったつもりだったのだが、シエルにこりともせず皮肉気に唇を吊り上げる。 「……まさか? この国が全てが無くなっても、恨みっこなしね? おっとりしているあの子が恋に狂ってしまったら……。お前の愛を求めてお前に気に入られたくて、どんな風になるのか見てみたい気もするけどね。……じゃあ、もう会うことはないわね。さよなら」 「……また会いましょうね、おばあさま」 「ふふふ……、ダイ、お前に……」  去り際、直接耳元で囁かれたように吹き込まれた言葉は恐ろし気なものだったが、そんな風に言いながらもどこか最初と違い慈愛の滲む眼差しをしたシエルに見送られ、ダイはルーチェに戻っていった。  決死の思いで王都から指輪を持ち帰ったダイは、案の定、何度もイリゼとも食事をしたことのある幼馴染の副官までもが彼に関する記憶を失くしていることがすぐに分かった。 (イリゼ! よくも俺の留守を狙って、記憶も何もかも綺麗さっぱり消そうとしてくれたな)  怒りが込み上げ、すぐにイリゼの店に乗り込んで一泡吹かせてやりたかったが、今回の王都行きは半分は仕事で残りの半分はなんとかもぎ取った休暇を当てたため、帰郷後のたまりにたまった仕事を片付けている間に三日が過ぎた。  そして、ようやくイリゼの待つ店を訪ねて行こうしていたら、若い連中が酒場に迷惑をかけているらしいからあんたも来てくれと、副官の癖にいつも偉そうな幼馴染に引きずられて皆がたむろしている酒場くんだりまでいくこととなった。 (早くイリゼに会いに行きたいのに、邪魔ばかりはいる)  不機嫌極まりない顔で酒場にたどり着いたダイは、すぐに我が目を疑う光景に出くわすことになった。  ダイから身を引く覚悟を決めたイリゼは、離れている僅かな間に思わせ振りな態度で若い男たちを次々と誘惑し、あろうことが酒場の片隅で訓練生に抱かれたまま寝こけていた。その衝撃的な姿が目に入り、ダイは嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。 (イリゼ、あいつなにやってるんだ。記憶を消して、俺の居ぬ間に早速、男漁りか?!)  冷静さを欠いた方法で若者からイリゼを奪い取り、とにかくに家まで送っていった。途中何を考えているのか、昔と同じように無防備な仕草でダイの懐に擦りつき眠ってしまうイリゼが愛らしくも憎たらしくて、胸の中に燻る焔に苛立ち募る。 (俺が記憶を失くしているから、又初めから恋を仕掛けて弄ぼうとしているのか?)  そんな器用なことをできる人間ではないと分かっている。しかし今までのイリゼが見せた全ての顔は、あの恐ろしい魔性である祖母譲りの蠱惑的な演技だったとでも疑いたくもなった。  眠りながらも温もりを求めるようにダイの胸に頬を押し付け「ダイ」と時折小さく甘い声で名前を呼ぶ。かつて何度も触れずにはいられなかった白い柔らかな頬に零れる涙の透明な雫を見て、ダイはあっけなく、そのイリゼの健気さに胸をぎゅっと絞られた。そして手を繋いだ時に当たった指輪の感触から、まだ自分に未練を抱いてくれているのではないかと期待する。 (イリゼ……、まだ俺を想っていてくれるよな?)  いつだったか共に蛍を眺めにいった河原に座り込み、寒そうに身を縮こまらせたイリゼに自分の上着を着せ掛け包み込んでは抱きしめる。 (王都に行っている間に今度こそ消えてなくなっているかと思った……。良かった、イリゼはここにいる)  清純だが艶めかしくもある唇に許可なく口づけたら、彼は目覚めて不思議そうな顔をした。  その後は出会ったばかりの相手と思っているのならば親しすぎる、拙くも破壊力の或る数々の誘惑をお見舞いされ、すでにイリゼにめろめろのダイはそのまますぐに真実を告げて彼に跪いて愛を誓いたい心地で一杯になった。  だがあの魔女の言うことにはこの指輪に込められた魔法の発動条件というものがあって、指輪を触れさせた状態で互いに本当の意味で心から相手のことを求めあう必要があると教えられた。 (逆にもしも拒絶されたら、俺に命はないのかもしれない)  そんな考えも頭に過ったが、あの幼き日にイリゼを求め始めた時から、ダイはずっとイリゼを得るためならば命も惜しまない気持ちで生きてきた。 (イリゼに忘れられて一度殺されたようなものだ。今更惜しむ命ではない)  ダイの指輪を婚約したのかと勘違いして妬き、早合点から媚薬のようなものを飲ませてダイを堕とそうとし、ついには乱れ狂いながらダイの愛を受け入れた人騒がせなイリゼ。  とんでもなく身勝手で、我儘で、そしてどうしようもなく愛おしい男。  真実の愛を交わし、指輪を通して互いの生命力を交換し混じり合わせ、幼い頃に感じたのと同じ熱い魔力を流し込み、肉体的にも境目がなくなるほど何度も何度もお互いを貪りあい、イリゼが何度も気をやっても揺さぶり続けて……。

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