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第55話 迷宮

 翌日、仕事に出かける勇介を見送ってから、涼一は久しぶりにリスカ衝動に駆られた。  昨夜も勇介は涼一を激しく抱いた。  けれども、その優しい瞳に不意に浮かぶ寂しい色。それが悲しくて涼一は勇介の背中に思い切り爪を立てた。 「あの傷、勇介さん、痛むだろうな……」  昨夜の情事を思い出しながら、ポツリと呟く涼一。  不安や寂しさ、自分の中にマイナスのものがどんどん占めて行くので、リスカをして、血と一緒に流してしまいたいと思う。 「でも、だめだ。リスカしたら勇介さんが悲しむ!」  涼一は自分にそう言い聞かせ、リスカ衝動から逃れるため、必死で楽しいことを考えようとする。 「……今夜は何を作ろうか、昨夜が洋食だったから今夜は和食がいいな。そうだ、かやくご飯とお味噌汁とかいいかも。うん、そうしよ」  勇介と二人で作る夕食作りの楽しさを思い浮かべながら、わざと明るい声で呟いた。  勇介がときどき見せる寂しい表情については、できるだけ考えないようにして。  身支度をしてマンションを出ると、まだ一人では少し緊張するけれども、頑張って近くのスーパーに向かう。 「えーと、ニンジンとネギと……」  夕食に使うものを籠に入れていると、 「あなた……涼一くん?」  後ろから声をかけられてぎくりとする。  声をかけて来た、その女性は、そこから急いで立ち去ろうとした涼一の前に立ち塞がった。 「待ちなさいよ! あなた、勇介さんと一緒なんでしょ? ここらに住んでいるのね!? どこよ!? どこに勇介さんといるのよ!? 教えなさい!!」  その女性は、勇介の父親が、勇介と結婚させようとしている祐実だった。  まさか、こんなところで会うなんて。  彼女もこの近くに住んでる?  どうしよう?  涼一がパニックになっている間にも、祐実はずけずけと容赦なく彼を責めて来る。 「あなた、社長たちがどれだけ捜しているのか分かってるの? ……そんなにかわいい顔した子供のくせに、やることえぐいわね。いい? 勇介さんは優しい人だから可哀そうな子供のあなたを放っておけないだけなのよ? それを恋だと勘違いしてるだけ。あなたと勇介さんが一緒にいるとみんなが迷惑するのよ。彼は時期社長で、もうあたしとの婚約も決まってるのよ。あなたは邪魔なだけ」  祐実の投げつける一つ一つの言葉が硝子の破片のように、涼一の心に突き刺さる。  そしてとどめの一欠けらが鋭く涼一の心を引き裂く。  祐実の半ば馬鹿にしたような笑い声とともに放たれた言葉が。 「勇介さんもきっと後悔してるわ。なにも生み出せない男の子と一緒に行くことを選んだこと」  涼一はスーパーの籠を祐実に投げつけると、その場を脱兎のごとくあとにする。  その背中に祐実の声が追いかけて来る。 「きっと見つけてみせるわ。あなたたちのこと。そして別れさせてあげる、勇介さんのためにも」  涼一は万が一彼女が後をつけて来て、自分たちの住むマンションを突き止められたらと恐怖し、幾度も回り道をし、ようやく帰って来た。  震える手で鍵をかけ、チェーンまでしっかりかけた。  そのまま玄関の扉に凭れてズルズルと座り込んだ。震えと涙が止まらなかった。  祐実の投げつけて来た言葉が涼一を苦しめる。  俺の存在は勇介さんにとって邪魔なだけなのかな?  俺と一緒に来たこと勇介さんは後悔してる? ……あの寂しそうな表情はそのせい?  どんどんどんどん悪い方へと流れる思考。  もし、涼一がもう少し大人だったなら、祐実の言葉になど惑わされなかったかもしれない。  しかし、涼一はまだ十八だ。それも恋の経験などない。  勇介のことを愛していれば、いるほど、自分の存在が彼の迷惑になっているような気がしてきて。  苦しい。

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