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第5話 飼い慣らす

 本条が目覚める前に、有坂はそっと腕を抜け出して部屋を出た。  恋人のフリなんてやめよう、本条が愛しているのは自分ではないのだから。  そう思っていたのに、本条から身体を気遣うメッセージがきてまた会いたいと請われれば有坂は揺れた。一日中メッセージアプリを開いては閉じることを繰り返したが、後ろ髪を引かれながら何度か来るメッセージを無視した。  いつもの服装、決まった通路を辿って大学に行き、普段と同じものを食べ、講義が終わればアルバイト先に行く。有坂はいつも以上に神経を使ってルーティンをなぞった。早く"いつもの"生活に戻りたかった。  しかし本条はそれをあっさり突き崩す。アルバイトが終わりいつもの道で、本条と有坂が出会った場所で、本条は待ち構えていた。 「お疲れ様」  と本条は笑いかけるが、有坂は震え上がった。 「ご飯食べに行こうか。それとも遊びに行く?」  有坂は「結構です」と答えるだけで精一杯であった。  しかし肩を抱かれ捕まってしまう。離れなければと危機感を抱くが、やはり一緒にいたいという気持ちも湧き出しせめぎ合う。結局食事だけなら、と了承してしまった。  精悍な顔に甘さを漂わせる本条は、スタイルも良くスーツが映える。本条の行きつけだというバルに向かう途中でも、男女問わず誰もが振り返った。  有坂はそれどころではなかった。本条の後について歩き進めるたび、視界がぶれるような軽い眩暈がしていた。それは本条の家で感じたものと同じものだ。  そして本条が歩く道は、有坂は一度も来たことがないのに見覚えがあった。カフェや自動販売機の位置、居酒屋や洋服店の映像が、足がその場所にたどり着くより先に頭に流れ込んでくる。ここに来たことがあると、確信した。あの夢の中で。  有坂は足を止める。心臓がバクバクして、胃が迫り上がってくるような不快感が嘔吐を催す。口を押さえて白い顔をする有坂に、本条は「大丈夫?」と労いの言葉をかけた。有坂は首を左右に振る。 「……こわい」 「なんで? 来たことあるでしょ」  有坂はびくりと肩を縮めた。やはり、本条は分かっていて連れてきたのだ。  本条の手が有坂の指に絡まり貝殻のように合わさった。いわゆる恋人繋ぎだ。そのまま手を引いて、赤い塗装の自販機の前まで連れて行く。 「自販機で、よく季節限定のジュース買ってたよね。ゼリー入りの炭酸とか、季節のフルーツの紅茶とか」  本条はスマートフォンをかざしてあたたかいコーヒーとココアを買う。その手の輪郭が一瞬ブレて、コーンスープやミルクセーキが並ぶ中、カレーのパッケージの缶を選ぶ指先のビジョンが浮かぶ。 「なんでカレー……?」  有坂が呟くと、本条はパァッと顔を輝かせる。 「そう! そう! 買ってた! 変わった味のものよく買ってたよね」  本条は懐かしそうに眉を下げ、どっちがいい? とココアとコーヒーの缶を差し出す。有坂はコーヒーをとり口にした。微糖と記載してあるのにやけに甘い。甘いものが苦手になってしまった有坂だが、捨てるのも気が引けちびちびとコーヒーを舐める。 「ちょっと顔色良くなったね」  優しい微笑みがじわりと胸に沁みた。それでも心の隅から、本条は自分のことがどう見えているのだろう、と有坂は穿った目を向けている。  本条は有坂の手を引きながら、この洋服店で時計を買っただの、ここの信号機が毎回長く待たされるだの思い出話に花を咲かせた。有坂が相槌を打ったり夢で見たことを話すと、本条は嬉しそうに笑った。  そうするうちに、有坂は実際に本条とこの場所を巡ったような気になってくる。本当に本条の恋人になれたようで嬉しさが込み上げる一方で、自分が別人に成り代わってしまいそうな恐怖が付き纏っていた。  バルの前にきた瞬間、名物料理の形状や味や食感が、メニューを見てもいないのに目や口の中に蘇った。胃の中のものが逆流してコーヒーの匂いが喉元まで迫り上がる。 「すみません……やっぱり、体調が……」 「そんなに?! ごめんね、無理させちゃったかな」 「……今日は帰らせてください」  有坂は半泣きになりながら訴える。夢と現実の境目がどんどん統合されていく。自分の身体も頭の中も侵食されていくようで、有坂の心は追い詰められていった。 「じゃあ送るね」  本条は肩を抱いて踵を返す。  自宅を知られるなんて、と焦ったが、有坂はいつも決まった時間に決まったルートで家に帰る。それを変えるのは有坂にとって多大な労力を要するためルーティンを変えることはないだろう。何も言わなくても自宅を突き止められるのは時間の問題だ。  有坂は、どうにか本条と恋人との思い出がない場所を探した。そして、白くてふわふわのウサギのフォルムを思い出す。 「……本条さんの家、行ってもいいですか?」  本条は目を丸くする。有坂も、さもその気があるような物言いをしていることに気づき赤面する。だが本条はいいよ、と微笑みタクシーを捕まえた。  マンションに着いて部屋に入ると、デジャヴや眩暈は起こらなかった。  一度現実に訪れたからだろうかと有坂は考察する。幾分か心と身体を休めることができ、考察できるだけの余裕が出てきた。それと同時に、なぜタクシーで帰らなかったのかと後悔する。 「大丈夫? 横になってもいいんだよ」  本条は座椅子にもたれかかる有坂の横に座った。ウサギの"わたあめ"はケージから出され、折り畳み式のサークルの中でぴょこぴょこ跳ねている。  有坂はわたあめを見ていると落ちついた。ふわふわした丸っこい生き物が動いているのが単純にかわいらしく、また、本条と有坂だけが共有する記憶だからだ。 「大丈夫です。……癒されますね」  有坂がわたあめを見ていることに気づき、本条は 「抱っこしてみる?」 と立ち上がる。有坂が遠慮する間も無く、本条はわたあめを抱えて座椅子に戻った。  わたあめは身を乗り出し、ふんふんと有坂の匂いを嗅ぐ。赤い目は好奇心と警戒が混じっており、有坂はなんとなくじっとしていることにした。するとわたあめは、本条の腕から抜け出し有坂の膝に乗った。手足に生えた爪がチクチクするが、足の裏までふかふかで、有坂は「おぉ……」と感嘆の声を上げる。  しかしすぐ飛び降りてしまい、ぴょこぴょことリビングを跳ね回る。本条はわたあめを捕まえてサークルに戻した。 「ちょっと慣れてきたね」  本条はニコリと振り返る。 「かわいいです」  有坂もつられて頬が緩んだ。本条と自分だけが持つ繋がりが増えたような気がして嬉しくなる。  それゆえに、それから本条に会うときはマンションで過ごすことを好んだ。  たまに見覚えのあるショッピングモールに行ったりダーツバーに誘われたりして目眩に苦しんだが、併設された映画館で見た映画は初めて見るものであったし、本条のダーツの腕前が上がっていて差分を見つけることができ、純粋にデートを楽しめる部分もあった。  何度もマンションに行くうちわたあめにも懐かれ、有坂の前でも身体を伸ばして座ったり毛繕いしたりして心を許している様子を見せた。  今の有坂は、本条との時間を積み重ねていくことが楽しくて仕方がない。この時間は、有坂と本条だけのものだと信じて疑わなかった。  ただ最近は、本条は仕事が忙しいらしく会える日が減っている。疲れているのか、会っても少し気怠げにしているのが気になる。  それに追い討ちをかける出来事が有坂に起こったのは、梅雨の半ばだった。  その日、有坂は土砂降りの雨の音で目が覚めた。朝なのに部屋は真っ暗で、この場所こそ夢の中ではないかと疑った。  有坂は、初めて夢を見ることなく朝を迎えた。あの事故から、毎日のように見ていた夢を。  まず頭に浮かんだのは 「どうしよう……」 という焦りだった。本条が恋人になるよう持ちかけたのは、有坂が本条の恋人の目と記憶を持っていたからだ。それがなくなった今、本条から直ぐにでも別れを突きつけられてもおかしくないと有坂は焦燥に駆られる。  有坂はスマートフォンを点け、今まで見た夢の内容を記憶から引っ張り出し片っ端から書き殴った。時系列も文章も支離滅裂だったが、忘れる前に少しでも記録に留めておきたかった。フリック入力する指が思考に追いつかず苛つきがつのる。さらに書けば書くほどビジョンは遠ざかり、思い出せなくなっていく。  途中でアラームが鳴り、それを止めることも煩わしくスマートフォンをベッドに叩きつけたくなった。  だがそのアラームは大学に行く時間を告げていた。ルーティン通りの家事も出来ず、いらつきながら有坂は大学に行く支度をする。  洗面所に駆け込んで顔を洗おうとすると、鏡の中には見知らぬ美青年がいた。有坂は悲鳴をあげ後ろに飛び退いた。しかし目が離せない。よくよく見れば、本条のかつての恋人の雅也だった。雅也は微笑み口を動かす。 もういいよ と言った気がした。なにが、と訪ねる前に有坂の視界は暗転する。そして土砂降りの雨の音で目を覚ました。  夢の中にいたのだとたった今気づいた。夢がどんどん現実に侵食しているようで恐ろしく、身体がこわばって起き上がれなかった。  だがその日から、有坂が夢を見ることはなくなった。  もう何がなんだかわからない。今夢の中にいるのか、それとも現実なのか。      

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