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五 パンドラの箱には希望が残る
選考会が終わって県大会、地方大会。
終われば全国大会。
それから並行して別の大会が始まって、予選本戦入り乱れ。
気候が良くなれば大会はシーズンになる。
特に、長距離は寒い時期がシーズンだ。
競技シーズンてこういうことなんだなって、大学に入ってから実感した。
次々とやってくる大会ラッシュ。
大会の多さに目が回りそうになる。
ほら、高校のときは参加する競技会って数も限られてるし、学校でちゃんと仕切ってくれるから。
オレみたいにのんびりしてるヤツはどんな大会があるかとか、あんまり詳しくなかったりするんだ。
みははちょこちょこと引っ張り出されて走ってる。
オレはサポート部隊で絶賛活躍中。
襷やバトンのリレーより、給水ボトル渡す技術の方が上達したと思う。
うん、マジで。
そういったらみはだけじゃなくて、部活のメンバーみんなにそこは上達を喜ぶところじゃない! ってぐりぐりと『かわいがられた』けど。
お前らの愛、痛い!
そんなこんなで、しばらく講義はご無沙汰だった。
久しぶりにまともに授業に出てきたら、なかなかに込み合った教室の授業にあたってしまった。
「良哉~、席とっといて」
階段状になった大教室で席を探していたら、上から声が降ってくる。
「おー。どこ……へぶっ!!」
……!
振り返ってどこの席を取ってほしいのかと声の主に尋ねようとしたら、今度は上からカバンが降ってきて、オレの顔面に着地した。
い、痛い……
鞄降ってくるっていうのは、ちょっと予想外だったなぁ。
「顔で鞄受けるとか、ねーだろ、普通……」
「は、はばんくるとほもわねーほん……」
下から上がってきたみはが、ぼとりとオレの顔から落ちた鞄を拾い上げてぽい、とあいてた適当な席に置いた。
「すまん、良哉。無事か?」
上からカバンの主が駆け下りてくる。
「はないたい……」
なんか一番固いとこが鼻に直撃した気がする。
涙目になってんのは、仕様がないだろう勝手に浮かんでくんだから。
指で鼻の下をなでる。
鼻血出てたらサイアクじゃん。
思った以上に講義に出席できてねえから、出席危ないんだ。
この講義落としたくねーのに。
なんて、顔を押さえていろいろとこらえていたら、
「あぶねーだろ。鞄なんてなげてんじゃーよ。つか、相手みてモノ投げろよ」
って、上から降りてきた奴にちょっときつい声で、みはが言うのが聞こえた。
え。
ちょ、ちょ、待て待て。
「や、みは、オレ大丈夫だし。ちゃんと受けなかったオレもわりーから」
「良哉がどんくせーのは今に始まったことじゃねえけどな。それわかってんだったら、尚更投げてちゃダメだろ」
「みは?」
「マジごめんって」
なだめようと思ったけど、みはが意外とマジで怒ってて、びっくりした。
鞄投げた奴も、その剣幕にビビッて、オレじゃなくてみはに謝ってる。
ええ、と、どうしよう。
何か、険悪になりそうで嫌なんだけど、そう思ってたら顔にやわらかいものをぎゅーっと、押し当てられた。
「な、何?」
「鼻血」
目を向けたらあねごがいた。
あねごがオレの顔にテッシュを押し当ててる。
「嘘、マジで?」
「嘘ついてどうすんのよ」
「だよね」
テッシュを外そうとしたら、ぐいぐいとかえって押し付けられる。
全然そんな感触ないんだけど、そんないっぱい出てきてんのかな。
押し付けられたから、慌ててテッシュに手を添えた。
っていうか、あんまりぐいぐいされるとかえって鼻血が出てきそうでやなんだけど。
呆れた顔でみはをちらっと見てから、オレに向き直ってあねごが言った。
「医務室、行こう。代返と鞄、よろしくね」
「え?」
「ちょっと、待って」
なんだか待ってという前に上手いこと通路に押し出されて、改めてテッシュを顔に押し付けられる。
オレが片手で押さえなおしたのを見て、あねごは空いてるほうのオレの手を引っ張った。
って、鼻血くらい平気なんだけど。
どうしても医務室に行かなきゃなんないのかな。
どっちかっていうと、講義のほうが気になるんだけど。
「あ、あねご?」
「行こう。そのほうが収まるよ」
階段教室をオレの手を引きながらあねごは歩く。
ちょっと一時よりもましになってたけど、細い手。
振り切ろうと思ったら、簡単に振り切れる。
だけど『収まるよ』そういったあねごの言葉がちょっと気になって、オレはおとなしくついていくことにした。
だって、みはがすごい剣幕でなんか、どうしたんだって感じで、収まるならそれに越したことないよなって、思うわけだよ。
「おい、ちょっと……」
慌てたみはの声がしたと思ったら、あねごが手をつないだままクルリと振り返ってものすごく通る声で言い切った。
あ、いやあねごちょっと待って。
階段教室の下のほうから声あげたら、教室にいるほとんど全員に聞こえると思うんだけど。
「だいじょーぶ、ちゃんと医務室行くから。それより、あとよろしくね~」
って、思ったら案の定、たくさんの視線がこっちを向くのがわかって、顔がこわばった。
つまり、あれだ。
この教室にいる奴のほとんど全員が、オレの手を引くあねごとテッシュを顔に押し当ててるオレのほうを見てるってことで。
オレ、当分の間、鼻血野郎と呼ばれること、確定……した、多分。
教室を出てからあねごはオレの手を放した。
三歩前を歩く秋っぽい暖かそうな枯葉色のカーディガン。
なんか違和感を感じて、あねごの肩を見下ろす。
いつも、オレより背が高いみはの背中を見てるから、オレが見下ろしてるってのは、ものすごい新鮮。
でも、違和感はそこじゃなくて。
あ。
「寒くない?」
そういえばあねごは上着を着てたぞ、と思い当って慌てて声をかける。
「……そうね。カーディガンだけだと、ちょっと寒いかな。でも、平気。りょうやんは、大丈夫?」
「ま、オレはそれなりに……ええと、ありがと」
「何が?」
「講義には出席しときたかったけど……とりあえず、場が収まったぽいから」
「ああ。そうね。講義、出てきちゃったから、戻るに戻れないね」
くすり、とあねごは肩を揺らした。
「でも、ちょうどよかった。私、りょうやんと二人だけで話がしたかったから」
「え?」
「ごめんね」
「え?」
「だからね、鼻血ってのは嘘なの」
にっこりと笑って、あねごはオレの顔からテッシュを外して、こちらに見せる。
ふわふわとした真っ白な紙。
これっぽちも赤いところなんてない。
「りょうやんが全然疑わなくて、びっくりした」
あー。
全然感触なかったから、怪しいとは思ったんだよな。
一応。
「や……鼻血って自覚なくいきなりつるっと来るもんだから。オレよりあねごのほうが背、低いし、オレの鼻の穴よく見えるのかなって思ってた」
あっけにとられて正直にそう言ったら、あねごは「鼻の穴が見えるって!」なんて言いながら、けらけらと笑い出した。
なんだよ、もう。
「いいなぁ、りょうやんのそういうとこ、癒されるなぁ」
「オレは癒されない」
「いいじゃん、周りが癒されるんだから」
大笑いしながらあねごはどこへ行くとも言わずに歩いていく。
足元で枯葉が踏みつぶされて、カサカサとないた。
もう、何だっていうんだよ。
周りが癒されてもオレが癒されてないんだから、オレだけ損じゃん。
鼻血が嘘なら、医務室に行く必要もなくて、このまま戻ったっていいだろうと思うのに、あねごは足を止めない。
仕方がないから、その後ろをついていく。
「ねえ」
ずんずんと歩いて行って、なかなか人のこない大学敷地の外れまで来てから、あねごが足を止めた。
「りょうやん、好きな人いる?」
……。
……え?
「え……や、えと、あの、ぅえええええ!?」
「なんて声出すのよ」
あねごが目をぱちくりさせながら、オレの顔を正面から見る。
「いやあの、ちょっと予想外の質問で度胆抜かれた」
「私はりょうやんの声で度胆抜かれたけど」
「ごめん」
「いいよ、別に。で、いるのいないの、どうなのよ?」
ふざけてるのかと思ったら、そこには意外と真面目な表情があった。
それでわざわざ人気のない場所まで、オレを引っ張ってきたのかって、納得した。
今ここに連れてこられたことについては納得したけど、だけど、さ。
好きな相手って、何であねごがオレにそれを聞くわけ。
そこがまずびっくりなんだけど。
「え、ええと……答えなきゃ、ダメ?」
「うん」
「今?」
「だって、りょうやん、いっつもみはちんと一緒じゃない。こうやって機会作らなきゃ、込み入った話、なかなかできないんだもん」
あっさりと、そう言われた。
いつも一緒だって。
そう見えてるんなら、それはそれでいいんだけど……そうしてる部分があるのは確かだし。
でも。
「べ、別にいつもってわけじゃ、ないけど」
「じゃあ、なかなかりょうやんが一人にならないから、こういう話、りょうやんとだけしたくてもできないのよねって、言い換えてあげてもいいけど」
「……あ、ありがと」
「どういたしまして。で、どうなの」
「ど、どうって……」
どうっていわれても。
いわれても……困る。
「何であねごがそこに食いついてんのか、わかんないんだけど」
「だって知りたいもん」
「だから、何で?」
「進めないから」
は?
進めない?
って何が?
あねごが?
何を?
「はとが豆鉄砲」
オレの顔を見て、あねごが肩をすくめて笑った。
「え?」
「りょうやん、そんな顔してる」
……うん、正しくそんな気分になってる。
答えてあげた方がいい。
それはわかってんだけど、あねごの真意がわからなくて、オレは何度か口を開きかけて、やめた。
だって、どう答えたらいいのか、わからない。
「あのね、ちょっとまえに私がダメダメになってた時、みはちんさりげなく優しかったじゃない」
しばらく無言のまま見詰め合ってたら、あねごが諦めたようにため息をついてから口を開いた。
「みんな、優しくしてくれてたけどね。でも、心配してくれてるのはわかるけど、割れ物扱うみたいでさ、余計居た堪れないし」
「あー……うん」
「突っ込んでくれたのはりょうやんだけだったし」
「あんときはごめん」
オレの言葉に、あねごはううん、と首を振った。
「言ってくれてよかった。周りに心配だけさせてるダメな人になってるって、気がつけたし。まあ……それでね、あのとき、『みはちん、いいなあ』って思ったわけよ」
学食での、あのシーンを思い出す。
あの時ことん、と、あねごの目の前に置かれた缶ポタージュ。
あれであねごは、みはを見るようになったんだ。
でも、そこからオレへの『好きな人はいるのか』って質問に、話がつながらないんだけどな。
「みはちん、結構いいなぁ好きかも~って思って気にしてたらね、みはちんが誰を見てるのかわかっちゃって」
「え?!」
「えって何?」
「み、みはに好きな子がいるってこと?」
「まあ、多分、私のカンでは」
……オレ、全然気が付いてなかった。
みはに、好きな子?
いや、いてもおかしくはないんだけど、でも。
「で、たどっていくとりょうやんにつながってくのよ」
「はい?」
「いろいろと個人情報があるから端折ってみた」
端折ってみたって。
えーと、つまり。
あねご→みは→(中略)→オレ
……ってこと?
「いや、そこ端折られても困るんだけど」
「個人情報だし勝手情報だから、トップシークレットなの」
「情報開示は?」
「ないわよそんなの」
うふふふ、とあねごは首をすくめて笑いながら言った。
だから、このこう着状態を何とかするのに、オレが誰かのことを思ってるのか、知りたいんだ、と。
かんかんかんかん、って。
オレの中から鐘がなる。
気をつけろ気をつけろって、音がする。
このまま話を続けてたら、曖昧にしてたことが曖昧のままじゃなくなる。
欲が欲になって見えてくる。
ふわふわした気持ちに名前が付く。
気持ちの中の箱が開く。
開けちゃいけない禁断の箱。
なんだったっけ、パンドラの箱?
いやいや。
あれは最後に箱の底に希望が残っていたはず。
オレの中の箱があいちゃったら、中に希望は残ってない。
全部出ちゃって取り返しがつかなくなる。
あれは、なんだっけ?
そうだ、玉手箱。
モクモクと煙が出て浦島太郎が爺さんになるって現実が、否応なしに突きつけられるっていうあれ。
「りょうやん?」
「ごめん……オレ、今んとこそういうのないわ」
「そういうのって、好きな子がいないってこと?」
「うん」
萎えそうになる気持ちをぎりぎりのとこで振り絞って、あねごに答えた。
声が震えそうになるのを、必死で抑え込んだ。
「ホントに?」
あねごの確認にはうなずいたけど、気が付いてしまった。
嫌だな。
みはに好きな子がいるのは嫌だ。
あねごがみはを好きなのも嫌だ。
誰かがオレを見てるのも、嫌だ。
だってそうなったら、見てるのは誰かで、みはじゃない。
オレは、みはがいいんだ。
玉手箱、開いた。
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