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第634話 ※

 周の口を塞いでいる彼は周の身体を動かぬよう拘束しながら、むき出しの脇差を持つ手をガタガタと震わせている。流石の彼でも、少しの間寝食を共にした者に刃を向けるのは良心が咎めるのだろうか? そんなことを思っていれば、震える刃が腹にめり込んだ。 「ッッ――!!」  鋭い刃が貫いたというのに、不思議と痛みは感じなかった。痛みも、熱も、恐怖も、何も感じない。あるのはただ、この世の無常に対する虚しさだけだ。  雪也はとても優しかった。周に与えてくれた優しさを、他の人にも惜しみなく与えていた。今、周の腹を貫いた者もまた、雪也に優しさを与えられた一人だというのに、その結果がこれか。  思想の違いというものは、恩さえも忘れさせるのか。それとも、彼にとって雪也の慈悲は恩に値すらしなかったのか。  動きを封じるよう身体に回されていた腕の力が緩む。脇差を引き抜かれ、真っ赤な血が噴き出した。温かな日々が詰まった庵が血で汚されて、それを悲しむ余裕もなく身体が頽れる。己の血だまりに頬を埋めて、周は小さく息をついた。 「すまない。許してくれッ」  それだけを言って、彼は現実から逃げるように裏口へ走った。そんな彼を小さく嗤って、周は雪也を求めるように扉へ震える手を伸ばす。あぁ、こんなにもこの手は重かったのか。 「……ゅ……ゃ」  雪也、雪也。こんな姿を見せたら、雪也は傷つくだろうか。あなたに救われた命だから失うことは怖くないが、それだけが気がかりだ。

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