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第731話
「それでも、もしも今目の前に座っておられるのが杜環殿ではなく光明殿であったなら、私は正気を保ってはいなかったでしょう。あなたが言ったように、否、それ以上の憎しみと怒りと殺意を抱き、今この瞬間にも殺そうと刀を握り、あるいはその首に両の手をかけていたかもしれません。けれど杜環殿、あなたには出来ない。する理由も、私にはありません。あなたは立場の違いや人々の思想の違いを充分に理解してなお、私を友と言ってくださった。言葉だけでなく、戦わぬために尽力してくださった。心の臓に負担がかかってなお、こうして紫呉を連れてきてくださった。なのに、あなたを恨むことはできません。あなたには、本当に感謝しかない。そして今の私は、その恩に報いる何をも持っていない」
申し訳ない、と深く深く頭を垂れた弥生に杜環はらしくもなく慌てて、震える手で顔を上げるよう促した。
「弥生殿、あなたには何の咎もない。あなたは報いる何も持たないと言うが、それは違う。充分すぎるほどに、駆けてくださった」
私は知っている。ぽつりと零す杜環に、弥生は静かな視線を向ける。
「私は知っている。己の無力さを痛感するような願いを口にすることを芳次公は厭う性格だ。帝とて、姫宮様とお子が無事でさえあれば衛府が滅ぼうと近臣や民が死に絶えようと静観を貫くお方であることに変わりはない。だが、芳次公はあなたに託し、帝はあのような勅書を認めてくださった。弥生殿、あなただったからだ。あなただったから、お二人を動かすことができた。あなただったから、決して諦めることもなく希望をつなぐことができた。我々こそが、あなたの献身に報いる何をも持たない」
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