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第809話

「……ゆう」  名を呼ぶ声が、吐息が、震えている。 「うん」  焦らなくて良いと頷けば、吐息だけで苦笑するのがわかった。縋るように弥生の手が優の胸元を握りしめる。 「わたしは、誰も、殺したくなかった。生きていてほしかった」  弥生が愛した人も、慈しんだ人々も、名も知らない無辜の民も、命を狙ってきた敵でさえ。  誰一人として、切り捨てたくなかった。それはもしかしたら現実を見ない甘ったれた子供の考えだったかもしれない。けれど、弥生は最後まで切り捨てようとは思わなかった。 「将軍の首と、近臣の首。それらを差し出して新しい時代を作るのは、わかりやすくて簡単だったかもしれない。古い時代の終わりにふさわしかったのかもしれない。だが私は、それを正しいとは、どうしても思えなかった」  それをすれば、人々の中で命というものが軽くなるような気がした。何よりも重いモノであるはずなのに、大義名分や自らが信じる正義さえあれば他者の命を奪って良いのだという証明になりそうで、それが嫌で、恐ろしかった。

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