906 / 981
第82話
「なんだ? 俺の事は気にせず言ってみろ。そして俺が固まってたことは今すぐ忘れろ」
カタン、と小さな音がして、扉に備えられていた小窓からサクラが入ってくる。トテトテと近づいてくるその小さく愛らしい姿を見ながら、紫呉は由弦に先を促した。
「その、なんて言うか……、俺が先輩に会ったのは大学に入ってからだと思ってたんだけど、もしかして、前に会ってたりするか? すれ違ったとか、そんな軽い感じじゃなくて、すごく、深く……」
先輩の姿を見るだけで、何も怖いものは無いと思えるほどに。
(でもそうだとしたら完全に忘れてて、今もあんまり思い出せてない俺って、めちゃくちゃ薄情な奴じゃないか?)
口に出した後でそのことに思い当たり、由弦はサァーと音が鳴る勢いで顔を青くさせる。チラと紫呉の方を見れば、彼はほんの少し驚いたように目を見開いた後、何かを考えるように遠くを見つめた。クイッとサクラが紫呉の足を頭で突く。紫呉の大きな手がサクラを抱き上げた。つぶらな瞳が、ジッと紫呉を見つめている。
どれくらいそうしていただろう、きっと時間にすれば数秒ほどであったのだろうが、由弦にも、そして紫呉にも、長い長い時間のように思えた。苦笑するように紫呉が吐息を零す。そしてそっとサクラの小さな頭を撫でた。
ともだちにシェアしよう!

