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第83話
「……そうだな。俺はお前を知っている。サクラのこともな。けど、お前が覚えていないのは、普通で当たり前のことだ。むしろ、覚えている俺の方がおかしいんだろう」
たまたま、紫呉の側には幼い頃から弥生と優がいた。だから、なんとなく記憶を持っていることは普通であるように思っていた。けれどそれが普通ではないのだと、由弦たちに出会って思い知らされた。当たり前ではないとわかっていたけれど、本当はわかっているつもりだったのだと。
「けど、そんなもん重要じゃねぇよ」
紫呉は抱いていたサクラを由弦の腕に渡す。愛しい彼が、ずっと一緒だと言っていた愛犬を抱く姿に、紫呉は目を細めた。
由弦の記憶が無いことに嘆いたことなど数えきれない。どうしてだと、割り切ったはずの今でさえ時折思ってしまう。けれど、どれほどの苦悩であろうと、この光景には代えられない。
だってずっと見たかったのだ。この穏やかで、優しくて、愛おしい光景を。そのために、あの時の紫呉は走り戦ったのだから。
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