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第3話

 1994年8月、兵庫県西宮市。体温ほどの最高気温が続く記録的な猛暑の中、一台のトラックがアパートの前に止まった。砂利を敷き詰めた、四台ほどの駐車スペース。車止めの向こうにオダマキの花壇がある。このアパートの名前「オダマキ荘」はそこから来ている。すでに開花時期は終わり、青紫やピンクの可憐な花が見られないのは残念だ。とは言っても今年は連日の猛暑で元気がなく、いつもより花が少なかったため毎年楽しみにしている近所の人々も、少し残念そうにしていた。  オダマキの花壇に沿うように低いブロック塀があり、共用廊下になっている。室内に洗濯機のスペースが無いため、外に洗濯機を置いている。 「オダマキ荘」は二階建てアパートで、一階に三室、二階にも三室の計六室。正面から見て右側に、二階へ上がる階段がついている。階段の脇が駐輪スペースになっていて、自転車が二台とミニバイクが一台、置いてある。その駐輪スペースに、少年は乗ってきたマウンテンバイクを停めた。引っ越し先が近所のため、少年は今朝まで住んでいたマンションからマウンテンバイクに乗ってきた。所要時間は約二十五分、学区内なので転校する必要もない。最寄り駅は阪急電鉄の夙川(しゅくがわ)駅。以前は同じ阪急沿線の苦楽園駅で、少年にとって全く知らない場所ではない。この辺りは閑静な住宅街で、高級住宅街というイメージが強く、夙川駅やその真下を流れる夙川から多少離れていても、聞こえがいいためかマンション名に「夙川」とついていたりする。 「絢斗、大家さんに挨拶するからいらっしゃい」  ショートカットで活発そうに見える女性、梅塚喜美子(うめづかきみこ)が、トラックの助手席から降りてきた。半袖の真っ白なブラウスにクリーム色のスラックス、暑いのに革製のパンプスだ。これから世話になる大家に挨拶するのにラフな服装ではダメだと、少年は制服のシャツとズボンを着せられている。  アパートの正面から見て左側に一軒家があり、そこが大家夫婦の家だ。喜美子は水羊羹の詰め合わせの紙袋を持ち、大家宅に挨拶をした。  引っ越し作業が始まる。オダマキの花壇から向かって左側、一〇三号室。そこが梅塚親子の新しい住まいだ。以前のマンションは3LDKだったため、全ての家具を2Kの部屋に持ち込むのは無理だ。ほとんどの家具や衣類乾燥機、大型テレビなどを処分し、冷蔵庫も小さいものに買い替えた。  玄関の右手には、一人立てばいっぱいな狭い台所。西側に設置されているため、今のような夏場は食べ物の保存に困りそうだ。反対側、玄関の左手は、脱衣所の無い風呂。ガラスの障子を開ければ四畳半の部屋にトイレ、奥のふすまの向こうは六畳の部屋と押入れ。押入れの隣は開きになっていて、仏壇を置けるスペースになっている。その仏壇スペースは、収納に使えそうだ。  洗濯物を干すには、六畳間の窓の上部に取り付けられた金具にロープを渡すしかない。  以前のマンションのように、洗面所やベランダが無い。絢斗は六畳間を使い、そこに勉強机や本棚、タンスを置くが、母親が洗濯物を干したり押入れから布団を出したりするため、完全に自分だけの部屋になるというわけではない。  不便な生活だが仕方がない。以前のような生活はできなくても、学校に通えるだけマシだ。  梅塚絢斗は、両親と三人暮らしだった。だが絢斗が小学三年生のころ、会社員だった父親は行きつけのバーの女と不倫していて、その女といっしょになるため離婚した。当時住んでいた分譲マンションは慰謝料として父親がローンを払い続けていた。名義変更はしていなかったが、そのまま住まわせてもらっていた。ところが不倫相手の女に多額の借金があったことが判明し、父親も共に借金を負ったが、ストレスから体調不良で仕事を辞め、自己破産してしまった。そのためマンションを手放すことになり、二人はこのオダマキ荘に引っ越してきた。喜美子の収入なら小さい賃貸マンションでも借りられるのだが、好条件の部屋がなかなか見つからず、急いでいたこともあり、このオダマキ荘に決めた。  部屋に荷物を運びこむ前に、六畳間のエアコンをつけた。 「はあ〜…涼しいわぁ。去年の冷夏が懐かしいな。米が無いのんと、野菜が高いのはかなわんけど」  ハンドタオルで額の汗を吹き、エアコンの涼しい風を受ける。 「今年は熱中症で亡くなったり救急搬送される人が多くて、異常やね」  汗だくで小さな段ボールを運ぶ喜美子に、絢斗は業者といっしょに学習机を運びながら尋ねた。 「日射病はたまに聞くけど、熱中症なんか聞いたことないで。そんな患者って、去年までいた?」 「最近は日射病や熱射病をひっくるめて、熱中症って言うようになってん。だいたい、ボイラー技士とか特殊な環境で仕事する人がなるかな。炎天下でスポーツしてる人もいるけど」  喜美子は隣の芦屋市にある病院で看護師をしている。オダマキ荘を選んだのは、絢斗の高校の学区内であり、自身の職場が阪急電車一本で通えて駅までも十分足らずと好条件だったためだ。 「けど、絢斗が部活辞めたんは、考えようによっては良かったかもな。部活中の熱中症が多いらしいから」  それについては、絢斗は返事をしなかった。陸上部を辞めた理由は、顧問にも喜美子にも伝えていない。二人とも、本人の意思を尊重する、として。離婚で母子家庭になってしまった絢斗は中学、高校と進むにつれて口数が減ってきた。単に思春期の男子だからというわけではない。何事にも、興味を示さなくなった。そんな絢斗に周りの大人は、どこか気を遣っているのだろう。  全ての荷物を運び終えた後、喜美子は業者に封筒に入ったわずかばかりの心付けを渡し、荷解きを始めた。必要最低限の食器と衣類、日用品。荷解きが面倒にならないようにと、多くの物は処分してきた。絢斗も部活を辞めた上に趣味らしい趣味もなく、衣類や日用品以外で、勉強道具のほかは何冊かの漫画本ぐらいしか無い。  近所のスーパーで惣菜やおにぎりを買って夕食にした後、喜美子は熨斗紙のついた石鹸の箱を五つ絢斗に持たせ、部屋を出た。 「俺はええで。お母さんだけで行って来て」 「アホ言いな。きちんと挨拶しとかんと、あんたみたいな子が近所ウロウロしてみい、不審者や思われたらアカンやろ」  自分の息子を不審者呼ばわりするのかと呆れたが、喜美子の言うことはもっともだ。石鹸の箱を持ち、絢斗は喜美子の後についた。  喜美子が隣の102号室をノックする。このアパートには、インターホンもベルも無い。 「はい」  ドアを開けたのは、180センチはありそうな大男だ。肩幅も広い。ランニングシャツに銀色のドッグタグをぶら下げ、迷彩柄のカーゴパンツ姿だ。目つきが鋭く顎の不精髭が伸びていて、戦争映画に出てくる兵士に見えた。 「夜分遅くに申し訳ございません。隣の103号室に越してきました、梅塚と申します。こっちは息子の絢斗で、高校二年生です」  男はボサボサの髪をかきむしり、どうも、とお辞儀をした。 「荒井です。よろしくお願いします」  目つきは怖そうだが石鹸を受け取ったとき、 「これはどうもご丁寧に、すんません」  と、愛想のいい笑みを浮かべた。

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