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第5話
引っ越し早々、近所のトラブルを見てしまった絢斗だが、喜美子に頼まれて薬店にトイレットペーパーとシャンプーを買って戻って来た昼下がり、また絢斗は怒鳴り声を聞いた。二階の廊下の一番端、201号室。江田の部屋の前で、リカが怒鳴っていた。
呆然と見上げる絢斗に気づいたリカは、手すりから身を乗り出すようにして大きく手を振った。
「ちょっとー! 梅塚くんやったっけー?! こっち来てよー!」
できることなら巻きこまれたくなかったが、仕方なく絢斗は二階へ上がる。203の住人にはまだ挨拶ができていない状態だったが、それがすめば二度と上がることはないだろうと思っていた階段だ。
201号室のドアが少し開いている。先日挨拶に来たときみたいに、青白く細い眼鏡男が、ドアの向こうから顔をのぞかせていた。
「なあ、この部屋臭いと思わへん?」
本人を目の前にしていきなり不躾なことだが、確かにすえたような異臭がする。絢斗も嘘がつけず、
「はあ…、まあ、匂いますね」
「こいつがドアや窓開けるたびに、めっちゃ臭いねん! ずっと前から掃除して服も洗濯してって頼んでるのに、いっこもせえへんねんで!」
江田はよく見ると、先日挨拶に行ったときと同じ服だった。ということは、もしや風呂も入っていないのだろうか。反してリカは、甘い綿菓子のような匂いがする。香りに気遣うため、隣人の匂いにも敏感なのだろう。
「ご…ごめんなさい…。今の仕事終わったら、まとめて洗濯も掃除もするんで…」
「今すぐして! でないとこっちまで匂い移るやんか! あんたも何とか言うたげて!」
派手な爪の手で絢斗の腕をつかみ、加勢を求める。引っ越してきたばかりのたかが高校生が、年上の人に注意なんてしづらい。絢斗は言葉を選ぶ。
「あ、あの…今年は暑いですし、汗もかいてると思いますから…シャワーでもしたら、さっぱりしますよ」
江田はおびえたようにに眼鏡の両脇を抑えて、黙ってうなずく。
「明日も匂ったら、大家さんに言うから!」
リカは捨て台詞を残し、自分の部屋に帰った。絢斗も会釈をし、階段を下りて行った。
オダマキ荘に引っ越して四日目。203号室の住人とはまだ顔も合わさないまま。三度訪ねたが、いつも留守だった。夜遅い仕事だろうか。かといって、早朝や深夜に訪ねるのもよくない。今日は昼に訪ねたが、やっぱりいなかった。喜美子は“根気よく行ってたら、いつかは会えるよ。同じアパートやし”と楽天的だ。どんな仕事なのか人柄はどうなのか、さして気にしないようだ。
「絢斗、お母さん夜勤やから、晩御飯にお弁当でもしようか?」
午後三時、狭い台所に立つ喜美子が、ガラス障子越しに声をかける。
「別にええよ。この辺のお店で、何か食べてみたいし」
間に四畳半しかない部屋では、端から端まで声がよく聞こえる。六畳間で宿題をしていた絢斗は、少し大きめの声で返事をした。
毎回、激務に追われる母親に面倒をかけるのも悪い気がした。それに、引っ越してから近所のことがよくわからない。阪急電車の高架を越えると、大きなスーパーや緑豊かな西田公園があるが、この辺りはその程度しか知らない。部活をやめて趣味らしい趣味も特にない絢斗には、近所の散策はいい暇つぶしになる。
母親から夕食代をもらった絢斗は、まだ夕食には早い時間から外に出た。高架下の商店街を真っ直ぐ歩く。接骨院、八百屋、書店、クリーニング店が並んでいる。その隣のゲームショップで、絢斗は立ち止まった。カプセルトイの販売機がいくつか表に出ていて、最新ゲームのポスターが貼り出されてあった。絢斗が持っているゲーム機は古いものだ。両親が離婚してから、子供心に喜美子が苦労をしているのは理解していたから、友達と同じゲームが欲しいなどとねだることはしなかった。それでも喜美子は、誕生日やクリスマスにゲームを買ってくれたりした。しかしゲームは子供がするものだと思いこんでいるため、最近のプレゼントは自転車や腕時計などといったものだった。友達が持っているポケベルを欲しいとも思ったが、なかなか喜美子に言い出せないでいた。
夏休みで、小中学生が狭い店内に何人かいる。少し覗いてみようか、と足を踏み入れようとしたが、その隣の喫茶店のドアが真鍮製のドアチャイムを鳴らした後に、コーヒーとナポリタンらしきケチャップの香りを漂わせてきたため、そちらに興味が移った。中から出て来た客と入れ違いに、絢斗は喫茶店に入った。
「いらっしゃーい。お好きな席にどうぞ」
カウンターには初老のマスターがいて、トレイを持ったエプロン姿の奥さんらしき人がテーブルを片付けていた。照明が控えめで落ち着いた空間だ。テーブルは三つ。カウンターも止まり木が八脚。小さな店だ。カウンターではこちらに背を向けて老人が二人、話しこんでいる。
「ちぃーっす、梅塚のケンちゃんっ」
明るい声の女性に呼ばれた。見るとカウンターの一番端に、リカがいた。声と同じく、メイクも蛍光色で明るい。パイソン柄でフロントジッパーの、タイトなミニワンピースを着ていた。カマーバンドのような太いベルトが、細いウェストを強調している。チェーンとイミテーションパールのネックレスが絡まっている胸元は大きく開いていて、そこから覗く赤いインナーは見えても構わないキャミソールなのだろうけど、ブラジャーなのではないかと勘違いしてしまいそうなレーシーなデザインだ。目のやり場に困ってしまう。
「隣おいでよ」
離れて座るのも避けているみたいに見えるし、かといって近くに座れば馴れ馴れしいと思われそうで、座る場所に困っていた絢斗を助けてくれたようだ。絢斗は“こんにちは”と小さな声で挨拶すると、隣の止まり木に座った。
「リカちゃん、知り合い? 可愛い男の子やね」
「うちのアパートに、この間引っ越してきた子」
エプロン姿の奥さんが、水のグラスを置く。
「何します?」
カウンターに置かれたアクリルのメニュースタンドに目をやる。コーヒー、紅茶、ミックスジュースなどのドリンクメニューのほか、スパゲッティーやカレー、サンドイッチ、ハンバーグなどの洋食のほかに焼きそば定食といったものまである。
「アイスコーヒーと、ナポリタンください」
その匂いに誘われてきたのだ。メニューを見ても迷うことはなかった。
「ケンちゃんさあ、立ち入ったこと聞いていい?」
年上の女性に“ケンちゃん”と呼ばれまんざらでもない気分のはずだが、なにせ住人との言い争いを二回も目撃している。嬉しさが半減してしまう。
「あ…はい、いいですけど…」
「もしかして、お母さんしかおらへん? お父さんは?」
香ばしいケチャップの香りが漂う。夕飯には少し早い時間だが、絢斗の腹の虫が鳴った。
「いてないです。離婚して…」
リカは焼いた卵とレタスのサンドイッチをほおばり、話を続ける。
「でも、お母さん優しそうでいい人やん。うち、母親に虐待されようから、うらやましいわ」
赤い口紅が端についたサンドイッチを皿に置き、リカはアイスミルクティーを一口飲んだ。
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