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第6話

 リカは話を続けた。 「うちの父親は知らんねん。産まれたときから母子家庭。で、ホステスの母親は男とっかえひっかえ。母親や相手の男の機嫌悪い日ぃは、どつかれたりもしてん」  父親がわからない子供。母親の育児は熱心ではなく、名前にしても学がないため漢字が思い浮かばず、カタカナの“リカ”になった。  カウンターの常連の年配客が、どこのパチンコ店が出るだの雨の日は膝が痛むだのと話している中で、重苦しい話題だ。目の前に置かれたナポリタンを食べながら、絢斗は話を聞いた。 「今度の相手はまだマシやろか、みたいな期待はすんねんけど、何人目やったかなあ…もう諦めたんは。中一のころは、うちのパンツ盗んだり風呂覗いたりしやがった奴やってな。さすがに母親がキレて追い出した」  何度も変わる母親の内縁の夫は、ほとんどがヒモだ。オダマキ荘に似たアパート住まいだったリカは、母親の情事の声が聞こえるなど日時茶飯事だった。リカを性的な目で見ていた男に対して腹を立てたのも、我が子を守るためというより女として嫉妬したためだ。 「でな、中学卒業したときに家出てん。何も言わんと出たけど、捜索願いも出てへんねん。笑うやろ」  笑えない話だが。絢斗はアイスコーヒーを一口飲んだ。この店のコーヒーは苦味だけでなく、まろやかで香りもいい。だが、リカの過去は苦い思い出だけだ。 「最初はバイトしながら先輩とかツレの家点々としてて…ほんで十八のとき、西北(にしきた)(西宮北口駅)んとこのバーでバーテンやっとった彼氏といっしょに、オダマキ荘に住み始めてん」  リカは動物のキャラクターが描かれた手鏡を出し、カウンターに肘をついてつけまつ毛の位置を直す。 「いつか結婚しよな、って夢見せられて…。けどそいつ、店の常連やったカネモ(金持ち)のオバハンにコロッと引っかかって出て行ってんで。アホやろ」 「オバハンって…、そんな年上の人…?」  初めての絢斗からの質問にリカは嫌な顔をするどころか、あっけらかんとして答える。 「三十過ぎ…かな? 一回だけ顔見たけど。化粧だけ濃いババアや」  朝起きると彼氏の荷物が一切消えていた。テーブルには、置き手紙が一枚。“菜美さんの所に行く。サヨナラ” 「うちを追い出さへんかったんは、その菜美ってオバハンのマンションに転がるためやねんけど、テレビや冷蔵庫や家具は処分せんとそのまんまになってたんは、もしかしたらうちへの罪滅ぼしかなぁ…って、のんきに考えててんで。うちもアホやけど」  少し甘酸っぱい、ナポリタンのソース。リカの思い出も、少しだけ甘酸っぱいものにしていたかったのだろうか。 「でな、それが去年の二十歳んときやったけど、大家さんが名義変更の手続きとか一切やってくれて、うちが若いから収入も苦しいやろって、四万五千円の家賃を三万五千円にしてくれてるねん」  あ、これ内緒やけどな、とリカは人差し指を唇に当てる。今日の爪は、ピンク地に立体的な赤いバラがついている。 「臭いオタクとかうっさいミリオタとかいてるけど、大家さんも一階の大谷のおっちゃんもいい人やから、あそこに住んでるねん。三宮の店まで、そんな遠ないし」  三宮は、阪急電車で夙川から七駅目。乗り換えの必要もない。西宮市は大阪の中心地・梅田からも神戸の中心地・三宮からも近く、ベッドタウンとして人気だ。 「あ…あの…石見さん」 「リカ、でええよ。うちもケンちゃんって呼ぶし」  絢斗はクラスの女子でさえ、下の名前で呼んだことはない。幼稚園のころ以来だろうか。  アイスコーヒーを一気に半分くらい飲んで勢いづけ、リカの名を口にした。 「その、リカさんに聞きたいんですけど…。203号室の人、毎日挨拶に行ってるんですけど、いつも留守で()うたことないんです。どんな人なんですか?」 「ああ、加賀谷さんって人やな」  アイスミルクティーを飲み干し、口紅を塗り直しながらリカが答える。 「うちも何度か顔合わして挨拶したぐらいやねん。夜遅いんかなあ。ほら、イナイチ(国道171号線)沿いに『てっちゃん』ってたこ焼き屋さんあるやん。あそこの店主やて」  絢斗は国道沿いの道を思い出してみる。ファーストフード店、ガソリンスタンド、バイクの修理屋…。 「…あったかなあ…。通ったことはあるけど」 「あるある。めっちゃ小さい店やけど、たこ焼きおいしいってツレが言うてた」 「リカさんは食べたことないんですか?」 「うち、たこ嫌いやねん」  味の感想を聞きたかった絢斗は、ガッカリした。たこ焼きは好きな食べ物の一つだから、おいしいなら食べてみたい。 「加賀谷さん、ヤクザらしいねん。正月とかえべっさん(十日戎)はテキ屋やっとうとか」  ヤクザ、と聞いて絢斗はパンチパーマで頬に傷が入った強面を想像した。隣の大男、荒井とどちらが見た目で怖いだろうか。ヤクザと兵士。しつこいセールスを撃退するには助かる、とポジティブに考えるしかない。 「さて、そろそろ遊びに行くわ。ツレからベル入ってるし」 「今から…ですか?」 「うん、うちショップ店員やろ。日祝は忙しいから平日休みやねんけど、カレンダー通りの出勤の子と、いっしょに遊べる日が少ないねん。せやから遊び行くんはだいたい、この時間。多分、今日もクラブかな」  中古のブランドバッグを肩にかけ、リカは立ち上がった。ボディコンに羽根つき扇子でお立ち台に上って踊る時代は、早くも終息した。今やディスコはクラブと名を変え、相変わらずユーロビートを流している。  リカは会計を済ませ、絢斗に“バイバイ”と手を振った。ハイヒールの音を響かせて颯爽と歩く姿を見送るころには、リカの近寄りがたいイメージは消し去られていた。恋愛感情は無いが、一人っ子の絢斗には姉に近い存在に思えた。

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