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第8話
西田公園を出た絢斗は、そのまま自転車で一方通行の道を東に向かう。信号を左折すると、国道171号線だ。国道沿いに、たこ焼き屋『てっちゃん』がある。リカはそう言っていた。どこにあるのだろうかと注意深く国道の両側を見ていた。もうすぐ大きな体育館にさしかかるというころ、幅2メートルほどの小さな店で、黒い木製の看板にくすんだ白ペンキで『てっちゃん』と書かれた店があった。隣には白い軽トラックが停まっている。表には“たこ焼き”と書かれた赤ちょうちんがぶら下がっている。「営業中」の札がかかるガラスの片開きドアの横は大きく開いた窓になっていて、対面式で買うことができる。
高校から西田公園、そして171号線沿いのタコ焼き屋と来たのでずいぶん遠回りになったが、高校から南へほぼ真っ直ぐの位置だ。自転車なら十分もかからず来ることができる。
通ったことがある道だが、たこ焼き屋があるなど今まで気づかなかった。その理由が絢斗にはすぐわかった。たこ焼き屋独特の、ソースの匂いがしない。
店主はどんな人だろうか、と窓を覗いてみると、たこ焼き屋らしく店先に丸いくぼみが並んだ鉄板があった。温めてあるせいか近づくとかなり熱いが何も焼かれていない。鉄板の向こうには、こちらに背を向けて座っている短髪に鉢巻の男がいた。鉢巻はタオルのようだ。黒いTシャツの背中は広い。奥の角に取りつけられたテレビを見上げていた。
そのまま通り過ぎようとしたが、自転車のままウロウロしている人影に気づいたのか、男は振り返った。やや浅黒い肌、眉も目もどちらかというと細めだが、キリッと上がり気味で鋭い印象だ。鷲鼻で口が大きく、男らしい感じだった。肩幅も広く、Tシャツの肩が盛り上がっている。
「はい、いらっしゃい!」
絢斗と目が合うなり、男はよく通る声で笑顔を浮かべた。立ち上がり、鉄板のくぼみに油引きで油を塗る。荒井ほどではないが、上背はあるようだ。
すぐに逃げようとした絢斗だが、次に挨拶に行ったとき、顔を覚えられていては変に思われる。店の前に自転車を止めると、絢斗は思い切って頭を下げた。
「こ、こんにちは。あ…あの…俺、オダマキ荘に引っ越してきた、梅塚絢斗っていいます」
ステンレス製の粉つぎを持ったまま、きょとんとした顔で制服姿の少年を見ていた男に、絢斗はリカから203号室の人がたこ焼き屋をしていること、何度か母と挨拶に行ったが留守だったことを話した。男は口元に笑いジワをいっぱい作った。
「なんや、そうなんかぁ。悪かったなぁ。店は八時までやねんけど、うだうだテレビ見とったり、酔っぱらいのオッサンが閉店間際に来やがったりするからな、帰り遅いねん。あ、明日は休みやから部屋におるで。まあ、暑いから中入り。今やったら空いてるから」
目の前の少年が客ではないとわかった男だが、粉つぎから鉄板に粉を流しこむ。
冷房がよく効いた店内は小さなテーブルが二つ、丸椅子が四脚。メニューは持ち帰りもできるたこ焼きと、飲み物だけだ。三種類のサーバーが置いてあり、コーラ、オレンジジュース、烏龍茶の貼り紙があった。
「俺な、加賀谷哲司 ゆうねん。よろしくな。二十五歳独身、彼女募集中。てっちゃん、て呼んでな。あ、今日はたこ焼きおごったるから、よかったら飲み物だけ買 うてってんか」
哲司の抜け目のなさに絢斗も笑みがこぼれる。絢斗はコーラを頼んだ。哲司がサーバーから紙コップにコーラを入れ、絢斗がついたテーブルに置いた。
「高校生か? 何年?」
「二年」
「ほー、来年受験やな。今のうちせいぜい遊んどき」
油が染みついた壁には、カレンダーだけが掲げられている。いくつか赤い丸がついていた。明日の日付けに赤丸がついているところを見ると、おそらく休日の印だろう。毎週決まった曜日が休みなのではなく不定休だ。
たこや天かすを手際よく入れ、絢斗の方を振り向く。
「部活はやってへんの?」
「陸上やってたけど、やめました」
「もったいないなぁ。高校出たら大学行くん? 就職?」
「一応、大学…。関学で陸上やりたかったけど…近いし。けど、陸上やめたから大学行く意味ないかなって」
絢斗はコーラを飲みながら、器用にピックで粉をまとめてひっくり返す哲司の手を見つめていた。骨張った指に短い爪。爪の形は四角っぽい。器用そうには見えない手だが、手つきが鮮やかだ。
「勉強はできるうちにしいや。俺なんかランク低い高校をさらに退学したから、めっちゃ頭悪いんやで」
「退学?」
醤油が焦げる、香ばしい匂いがする。醤油だけではない。カツオだしとエビの匂いもする。普通のたこ焼きを焼いている匂いよりも、はるかに良い香りだ。クルクルとたこ焼きを返しながら哲司は話を続けた。
「中坊んときにケンカで相手怪我さして弁当 持ちなってな。そやから――」
「弁当持ち?」
「保護観察処分や。そやから、前科のせいで高校で悪さしたときに罪が重くなってな、カンカン行きや」
「カンカン、って?」
真面目に生きてきた絢斗にとっては、耳慣れない言葉ばかりだ。
「鑑別所や。まあ、ワルん中やったら、カンカン上がりなんかハクつかんけどな。ネンショー…少年院やったらともかく」
焼き上がったたこ焼きを、木製の舟皿に盛る。
「そんとき何やらかしたか言うたら、体育館裏で煙草と酒やってんの先公にバレて、その先公がシバいてきよったから、俺もキレてシバき返したら先公の前歯折ってもうて。ほんまは俺がアカンのわかっとうけどな、酔っ払ってたし引っこみつかんかってん」
板張りの床を引きずる足音。哲司は素足にスリッパだ。
「ほんで高校退学なってん。オカン泣かせてばっかりの、ごんたくれ(悪ガキ)やったで。さ、焼き立てがうまいから食え」
テーブルに乗せられたたこ焼きを見て、絢斗は驚いた。ソースもマヨネーズも無い。
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