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第10話

 翌日の夜、喜美子と絢斗は203号室を訪ねた。ノックをすると哲司が出て来た。白いタンクトップ姿で、肩に入れ墨が見えている。絢斗はドキリとした。入れ墨をした人など身近にいなかった。本物のヤクザであるとわかってはいたが、入れ墨を見ると改めて遠い世界の人間なんだと思う。  喜美子が深々と頭を下げる。 「はじめまして、102号室の梅塚と申します。ご挨拶遅くなりましてすみません」 「いやいや、こちらこそ、いつも留守してすんません。何度も来ていただいて申し訳ないです」  頭をかきながら、哲司も頭を下げる。肩の模様は、青っぽい渦巻きのようだ。 「昨日はうちの子がお店にお邪魔して、たこ焼きご馳走してもろたそうで、ほんまにありがとうございました」 「いやそんな、ご近所さんのよしみですから」  石鹸を渡し、これで全ての部屋への挨拶が終わった。  優しそうな人やね、とにこやかな喜美子に絢斗は、入れ墨をした人は怖くないかと尋ねた。 「うちの病院でもモンモン入った人たまに来るけど、みんな礼儀正しいよ。ほら、ヤクザは上下関係厳しいからとちゃうかな。医学のこと全然知らんのに知ったかぶりしたり、看護師をホステスや召使いみたいな扱いして偉そうにする人の方が、よっぽどやりにくいで」  看護師の喜美子は、毎日様々な人を見る。見た目だけで偏見を持ってはいけない仕事だ。うるさい親ならば、入れ墨を入れた人の店に行くことを禁じるだろう。理解ある母親でよかった、と絢斗は安心した。  九月半ば。ようやく猛暑から脱出できたようだ。だが、まだ気温は三十度を超え、蝉の声も聞こえる。絢斗は自転車で学校を出た。右手の緑濃い木々の隙間からは、廣田神社の社が見える。坂道を下り、真っ直ぐ171号線を目指した。黒い看板に赤ちょうちん。『てっちゃん』の店の中を覗くと、やはり哲司がこちらに背を向け、座ってテレビを見上げていた。 「こんにちは」 「おーう、絢斗やないか。いらっしゃい」  哲司は立ち上がると、鉄板のくぼみに油引きで油を塗る。自転車を止め絢斗は店内に入り、丸椅子に座る。テレビは相撲中継を流していて、十両の取組が終わるころだ。 「貴乃花、いつ横綱なれるんやろなあ、あんだけ強いのに」  哲司がそうつぶやいた。 「お兄さんと兄弟そろって大関の人?」  粉つぎで粉を流し、哲司はニカッと笑う。 「お、相撲詳しいんかい」 「あんま詳しくないよ。お母さんがよく見とうだけ。お母さんが若貴のファンで、京都にいるおばあちゃんが、お父さんの方の貴ノ花のファンやったらしい」 「そうか。お父さんは今、師匠の二子山親方や。現役時代は各界のプリンスて言われててな、その人のお兄さんの元二子山親方は『土俵の鬼』と呼ばれた名横綱・若乃花で――」  何度か来るうちに絢斗は、哲司と自然に話すようになった。打ち解けるまで人見知りなところがある絢斗だが、哲司の人懐っこさはそんな絢斗の壁を破ってくれた。 「あ、あのー…」  たこ焼きを焼く音に消されそうな小声だったが、哲司は拾ってくれた。 「なんや?」 “てっちゃん”、その呼びかけができない。同じ学校の生徒が、気軽に呼んでいるのに。 「相撲、好きなん?」 「おう、スポーツはだいたい好きやで。今年の春と夏は甲子園に高校野球見に行ったからな。絢斗はどうや? 陸上やりようなら、スポーツ興味あるやろ」  焼き上がったアツアツのたこ焼きを頬張り、烏龍茶で口の中を冷ます。 「別に…相撲はお母さんが見とうだけやし。高校野球はうちの学校が出るわけちゃうし。周囲は野球とかよりサッカーかな。まあ、スポーツ見んのは嫌いとちゃうけど」  去年Jリーグが開幕して以来、熱狂的なファンが増えた。サッカー部も人数が増えている。フェイスペイントの絵の具やシール、Tシャツなど、関連商品がどこでも売られている。 「絢斗、来年の春場所かセンバツ、いっしょに見に行かへんか?」  大相撲春場所は大阪市内の府立体育館、センバツはここから近い甲子園球場だ。哲司と相撲や高校野球観戦。二人でマス席やスタンドに座っているところや、哲司が大声で声援をおくる様子を想像してしまう。 「てっちゃーん、一つな」 「はいよ! まいど!」  老人が一人、窓の向こうから顔をのぞかせ声をかけた。常連客はみな“てっちゃん”と呼ぶ。あんなふうに気軽に呼べたら。だが一度タイミングを逃すと、時間がたつほど呼びづらくなる。俺が“てっちゃん”と呼んでもいいのだろうか。絢斗はもんもんと考え続ける。  舟皿にたこ焼きを並べ、油紙をかけて輪ゴムで止める。哲司の動作が流れるように素早く、絢斗は見入ってしまう。 「おっちゃん、袋はいらん?」 「いつも通りいらんで、近いさかいな。エコロジーっちゅうやつや」  長い腕を伸ばして舟皿を老人に渡し、料金を受け取る。ありがとう、気ぃつけてな! と大きな声が店内に響く。老人が帰ったタイミングで、絢斗は声をかけた。 「あ、あのー」 「なんや、蚊の鳴くような声やな。男やったら腹から声出せぇ」  カラカラと笑いながら粉つぎやピックを洗う背中を見て、どんな絵がその背にあるのかと考えたが、今はそれより大事なことがある、と絢斗は膝の上に置いた拳に力をこめた。 「て…てっちゃん…って、呼んでいい…?」 「最初に言うたやろ、てっちゃんって呼んでや、て。みんなそう呼んでる。おやっさんや元締めやアニキは“テツ”やけどな。ああ、すまん、煙草吸うてええか?」 「う、うん、ええけど」  哲司は絢斗のテーブルにつくと、セブンスターをくわえ火をつけた。 「お客さんおるときは吸われへんからな」 「俺もお客さんやで」 「そうやったな、悪い悪い」  笑い声といっしょに煙を吐き出す。その匂いは、六年前までいた父親を思い出してしまう。だが嫌悪感は無かった。不良の鑑別所上がりで背中に墨を入れたヤクザ男が、ワイルドでかっこいい。周囲にわかりやすい不良がいなかった絢斗にとっては、未知の存在だ。 「…てっちゃん、来年、相撲とセンバツ、両方見に行きたい」 「おお、そうか! ほな、センバツは外野覗いて入れそうやったら行ってみるか」  高校野球の外野席は無料。そのため外野席も満員で、特に地元に近い高校の試合があるときは通路もぎっしりのすし詰め状態だ。 「春場所はマス席予約したるわ。日曜やったらええな。初日、中日、千秋楽、どれがいい?」 “てっちゃん”と呼べた。それだけで初恋の相手と話しているみたいに、絢斗の心臓はドキドキする。強い鼓動を悟られないよう、できるだけ平静を装い烏龍茶を飲み干す。 「…ようわからん」  くわえ煙草で立ち上がり、哲司は壁のカレンダーをめくった。 「あかん、これ来年の一月までしかないやんけ。まあ、千秋楽が一番盛り上がるかな。表彰式もあるし、最後に神送りの儀もあるし。あ、でも力士が途中休場するかもしれんから初日がいっちゃん取組多いやろうし、八日目の中日は新序出世披露が見れるし、どれがええやろなー」  肩幅が広い。荒井ほどではないが上背がある。広い背中には、何の絵が描かれているのだろうか。龍や虎、般若、風神や雷神――勇ましいイメージのモチーフだろうか。入れ墨が見たいと言えば、哲司は怒るだろうか。友達同士のスキンシップみたいに、Tシャツの背中をめくってみたいような気がする。  だが、絢斗は過去に大誠とのことがあってから、他人に触るのも触られるのも苦手になった。陸上部のころ、顧問がフォームの指導で腕や足に触ることですら苦手だった。  薄い布一枚、それなのに分厚い壁で遮られているように絢斗には思えた。

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