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第15話

「せやけど絢斗、お前足速いなあ。ビックリしたわ」  焼き上がったたこ焼きをいつもの指定席に置き、哲司はまた鉄板の前に戻る。今日は絢斗の前に座る余裕は無い。テイクアウトのお客さんが待っている。 「うん、前は短距離やってたから」 「ほんま速いわ。辞めてまうんはもったいないで」  ピックで素早く舟皿にたこ焼きを移し、油紙を乗せ、輪ゴムで止める。 「ほい、三つのお客さーん、おまっとうさん。ありがと!」  陸上部を辞めた本当の理由を話してみようか。そうすれば、すっきりするかもしれない。けど、哲司に笑われるだろうか、軽蔑されるだろうかと不安もよぎる。 “絢斗、俺の言うこと聞いたら、あいつらが絢斗に手え出せへんようにしたるから” “嫌や…やめて…やめてください、児島先輩…”  みんなが帰った後の部室で、絢斗はジャージを脱がされた。あの夏と同じ、松の木にもたれかかった日みたいに、下半身をまさぐられた。  まさか、大誠が同じ高校にいたなんて。まさか――中学ではサッカー部だった大誠が、陸上部にいたなんて。  陸上部では、一年生は使いっぱしりの奴隷。いつも上級生に虐げられていた。特にターゲットにされる部員に対しては、虐めが酷い。二、三年生はこれを“指導”と呼ぶ。  中学では全く交流の無かった大誠が、どこの高校に進んだか知らなかった。三年生が引退してから、今度の二年生は輪をかけて虐めが酷くなった。ターゲットにされ始めた絢斗に、大誠は執拗に迫る。 “絢斗…あのころと全然違うやん。チンチン大きくなってるし。皮、むけたか?” “触らないでください!”  我慢していた絢斗だが、一年の終わりに陸上部を辞めた。 「どないしたんや?」  気がつけば、哲司が向かい側に座っていて、セブンスターに火をつけていた。  過去の嫌な思い出を振り払うように、絢斗はコーラを飲み干した。 「…陸上部で虐めにあってたこと、思い出して…」 「そうか」  と、哲司は煙を吐き出す。 「虐めは卑怯やな。最低や。男やったら、サシで真っ向勝負せんかい」  まだたこ焼きが残っているのにコップが空になったのを見て、哲司はサーバーからコーラを注ぐ。そして“奢りや”と、テーブルに置いた。 「でもな、手ぇ出すんもええけど、怪我させんのは俺みたいなアホのすることや。絢斗、お前は手ぇ出せへんから偉いで」 「でも…逃げた」  虐めだけではない。大誠のこともある。好きな人との性体験も無いまま大誠のおもちゃにされるのは、虐めと同様にきつい。今思い出しても鳥肌が立つ。  部活を離れてから大誠が接触してこないのが救いだ。小学生のときにあったような、ただの一時的な気まぐれだったのだろうか。 「俺、走るのが得意で陸上で頑張ろう思たのに、もう部活できんくなって、毎日が面白くなかってん。でも、この間詐欺師追いかけたとき、走るの楽しい、面白い、また走りたいって思って…」  哲司のゴツゴツした手が、絢斗の頭の上に乗った。 「大学行って走ったらええやん」 「一学期終わりに、進路希望出してん。一応、関学希望やったんやけど…陸上部あるし、うちからも通えるし。でも、部活してないし走れるかどうか」  喜美子が看護師として収入があるため、奨学金は受けられない。大学は学費のほか、遠方に通えば寮費などもかかる。喜美子の負担を考え、家から通える大学を選んだ。就職も考えたが、喜美子は“気にせんと好きなことやりや”と、背中を押してくれる。だが絢斗が陸上を辞めても、それを咎めない。若者に迷いはつきもの、と喜美子はおおらかに絢斗を見守ってくれている。  大きな手が、わしわしっと絢斗の髪をかき混ぜる。 「お前は立派なスプリンターじゃ。スポーツ留学ちゃうねんから、ブランクなんか気にせんと走ったらええやん」  哲司の笑顔に励まされる。大きな手に触れられる。それが心の底から嬉しい。ずっと、他人の手が苦手だったのに。もっともっと、哲司のそばにいたいと思う。関学に通えば、学校帰りにこうして『てっちゃん』にも来れるだろうか。  絢斗の心の中は、いつしか哲司で埋まっていた。  高校の、体育館内にある体育教官室。絢斗は緊張した面持ちで、ドアを四回ノックする。 「失礼いたします、二年C組の梅塚絢斗です。陸上部顧問の木田先生に用があって参りました」  気を付けの姿勢で一礼して、入室する。煙草の煙が充満する体育教官室。匂いだけでなく、この軍隊のような“儀式”も絢斗は苦手だ。  絢斗は陸上部の顧問の前でもう一礼すると、入部届の書類を出した。もう三年生は引退だ。今年、国体に参加することもない。絢斗たち二年生が最上級生になる。絢斗たちの学年は、三年生に逆らえず嫌々従っていたようなものだ。  入部届を出した後、部室に顔を出した絢斗を見て、二年生たちは驚いた。 「梅塚、おかえり!」 「またいっしょに走ろうな!」  出迎えてくれたのは、笑顔ばかりだった。

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