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第16話

 陸上部に戻って一週間、毎日のトレーニングで絢斗は勘を取り戻していった。走るのは気持ちいい。スタートを切ると、自然と体が押し出されるように一気に走り抜ける。以前よりタイムはよくないが、必ず取り返せると顧問にお墨付きももらった。  いつものように、『てっちゃん』の横に自転車を停める。だが、いつもと違う。周囲が暗いのだ。秋だから昼が短くなっているせいもあるが、今は部活帰りなので以前より遅い時間に『てっちゃん』に来た。野球部たちが店内を占領している。 「おう、絢斗。今日は遅いやないかい」  その言葉は哲司が絢斗を待ってくれていたみたいで、なんとなく心地よい。 「また陸上部に戻ってん」 「おお、そうか。よかったな! 頑張れよ」  ジャージやシューズが入ったスポーツバッグの重さを、誇らしげに思う。『てっちゃん』に寄る日数や時間は減るが、この一週間、とても充実した日を送っている。 「今日は持って帰って食べるわ。お母さんもおるから、二つな」 「ありがとう! ほんなら一個ずつオマケしたるわ!」  焼き立てのたこ焼きを一舟に九個入れる。話を聞いていた野球部員たちから、“てっちゃん、ずるいわ”“俺も俺も!”と声が上がる。 「やかましわ、クソガキども! ほら、今日だけやぞ!」  と、哲司はピックに刺したたこ焼きを一つずつ、野球部員たちの舟皿に入れてやる。 「ありがとうなー! 部活、頑張れよー!」  手を振る哲司に、絢斗も手を振る。たこ焼きが二舟入った袋を自転車のハンドルにかけ、171号線沿いを走って行った。  十一月に入り、ようやく秋らしくなった。走るのも辛くない。朝夕は冷えるが、ウォーミングアップで筋肉をほぐせば体も温まる。  いつものようにトラックを走った後、同じ二年生で絢斗と同じスプリンターの小田島が絢斗の肩を叩いた。 「なあ梅塚、お前えべっさんの福男選び、走ったことあるか?」 「ああ、十日戎(とおかえびす)の早朝に神社走るやつ? 行ったことないで」    西宮神社では毎年一月九日から十一日の三日間、商売繁盛を願う十日戎がある。本戎の十日の日、午前六時の開門とともに男たちが本殿に向かって参道を走り抜ける。一位でたどり着いた男が、その年の福男だ。昔から続く神事で、毎年数百名が参加する。 「俺、今年行こうと思ったんやけどな、寝過ごして無理やってん」 「来年は?」  小田島は首を横に振る。 「いや、もう行く気無いなあ。朝めっちゃ寒いし。梅塚行ってみぃや。ほんで、どんなんやったかレポートして」 「アホか」  二人で笑い飛ばした。こんな何気ない会話が嬉しい。上級生がいたころは、こんなムードではなかった。いつ用事を言いつけられるかわからない。呼ばれたら数秒で先輩の前にいないといけない。常に下級生はビクビクしていた。  午後六時、辺りは真っ暗だ。自転車のライトをつけ、池のそばの道を通り南下する。今日は小遣いが足りない。残念だが『てっちゃん』には寄れない。だが、店の前を通って挨拶ぐらいはしていきたい。そう思って171号線まで下りて『てっちゃん』に向かった。だが、看板の上のライトは消えていて、赤提灯は片付けられ、革ジャン姿の哲司がシャッターを下ろしているところだった。  キッ、というブレーキの音に気づき、哲司は振り向いた。 「よお絢斗、悪いな。今日は早じまいやねん。おやっさんや兄貴分やらいっぱい来てくれてな、ごっつい数売れたんや。ほんで材料切れ」 「そうなんや。今日は小遣い無いから、てっちゃんの顔見に来ただけやねんけど」 「なんや、可愛いこと言うてくれるな」  銀歯を見せてニヤリと笑い、哲司は絢斗の頭を乱暴に撫でる。不思議だ。やはり哲司の手に触れられると落ち着く。 「そや、ラーメンでも食いに行くか? 奢ったるで」 「ほんま? 今日、お母さんが遅番で帰り遅いから、ちょうどよかった」 「ほな、チャリ荷台に乗せ」  いつも隣に停まっている軽トラックの荷台に、絢斗は自転車を乗せた。 「よっしゃ、ヨンサン(国道43号線)沿いにうまいラーメン屋あるからな、そこ連れてったる」  トラックは国道171号線を南下し、札場筋を走る。 「ラーメンは好きか?」 「うん。たまに食べに行く」  初めて乗る軽トラック。隣には哲司。いつもは店で話しているが、こんなふうに運転席と助手席で話すのは初めてだ。  Tシャツの上から革ジャンを羽織っていて、入れ墨は見えない。哲司の肩や背中をシャツ越しに見るたび、どんな絵が彫られてあるのか、気になってしまう。思い切って哲司に聞いてみようかと迷ってるうちに、トラックは阪神高速の下――国道43号線を西に走っている。右手には瓦が乗った長い外塀、いくつも並んだ石灯籠。西宮神社だ。 「正月とえべっさんはなあ、この辺りに店出すねん」 「両方とも? 六日間も?」 「そうや。その間、イナイチの方の店は休みや」  トラックは神社を通り過ぎ、絢斗の知らない町を通る。 「ここって芦屋?」 「まだ西宮やで。あと道路二つほど越えたら、芦屋やけどな」  月極駐車場に入った。その中の二ヶ所はラーメン屋の専用駐車場だ。隣にラーメン屋がある。間口は『てっちゃん』よりほんの少し広い程度だ。のれんをくぐり引き戸を開ける。食欲を誘うスープの匂いがする。座席はカウンターだけだ。間をあけて男性客が三人いた。 「いらっしゃい!」  坊主頭のふくよかな店主が、カウンターの奥で中華鍋を振るっている。鮮やかな手つきで炒飯を盛り、客に出すと店主は素早く水のコップを二つとおしぼり二つを、絢斗と哲司の前に置いた。 「絢斗、チャーシュー麺食う?」 「うん」 「ほんなら、オヤジに言え」 「え? 俺が?」 「そうや」  哲司がセブンスターをくわえて火をつける。  絢斗が“チャーシュー麺ください”とボソリと言うと、哲司が思い切り背中を叩いた。 「声がちっさい!」 「チャ、チャーシュー麺!」  店主が笑顔で繰り返す。 「はいよ、チャーシュー一丁!」 「オヤジ、俺もチャーシューな」 「はいよ、チャーシューもう一丁!」  隣で哲司が笑っている。からかわれたような気がするが、嫌な気はしない。部活でいじめられた上級生とは違い、哲司からは悪意が全く見えない。 「お前、ほんまおとなしいな。真面目やし」 「そんなことないよ。てっちゃんが声デカすぎて不真面目なだけやねん」 「やかましわ、確かに俺はヤンキーやったけどな」  店内は暑い。哲司は革ジャンを脱いだ。紺色のTシャツが、厚い胸板と背中の入れ墨を覆っている。何かきっかけがあれば、どんなデザインなのか教えてもらえるだろうか。普段あまり他人のことをあれこれ聞くのは苦手な絢斗だが、糸口になりそうなことから聞き始めることにした。

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