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第18話
うっすらと割れている腹筋。間近で人の肌を見て、同性なのに少し気まずい思いをしながら、絢斗は平静を装って答えた。
「少し赤い。痛みはある?」
「少しだけピリピリするかな。軟膏塗ってたらええやろか」
「水ぶくれできてないから、塗ってもええよ。お風呂上がったら、また塗りなおして」
「ありがとうな、火傷したときのコツとか注意とか、ほかにある?」
絢斗は喜美子から教わったことを思い出してみる。
「えーと…水道の水でよく流して…でも冷やしすぎはよくないで。あと、火傷がひどいときは湯舟に入らんとシャワーだけにして、保護するときはラップ巻いたらええねん」
絢斗は台所で手を洗い、哲司が持ってきた救急箱の中から軟膏を出し、軟膏の蓋を開ける。指ですくい、哲司の患部に塗る前、ほんの少しためらった。大誠の件以来、人の肌に触れるのが苦手な絢斗だったが、哲司に対しては何となく恥ずかしさもある。
「…塗っていい?」
「おう、景気よく塗ってくれ」
そんなに厚く塗らんでいいで、と言いながら恐る恐る軟膏を肌の上に伸ばす。この皮膚の先に、入れ墨がある。虎だろうか龍だろうか。見せてと言えば、見せてもらえるだろうか。
「あ、あの、てっちゃん、Tシャツ染みになるかもしれへんから、着替えたほうがええんちゃう? シミ抜きもしたるで」
「ほんまか? 絢斗ええ嫁さんみたいやな」
嫁さん、と言われてドキリとする。まるで少女が、初めて好きになった人に対して結婚を意識するみたいに。
哲司がTシャツを脱いで上半身をあらわにした。肩の部分は、青い渦巻が見えている。Tシャツを受け取った絢斗が、食器用洗剤と洗面器を貸してほしいと言うと、哲司は風呂場と台所のある方に向かった。
そのときに、背中の入れ墨を目にした。虎でも龍でもない。般若や風神、雷神といった勇ましいものでもなかった。
「ほい、洗面器と食器用洗剤な」
絢斗は台所で洗面器にぬるま湯を張り、洗剤を入れた。
「熱い湯の方がよう落ちるんちゃう?」
「熱いお湯やと、生地を傷めるんやて。ぬるま湯で充分落ちるよ。もし血液やったらお湯で固まるから、水の方がいい」
「絢斗、やっぱりええ嫁さんやん! 俺んとこに嫁に来てくれ!」
と、勢いよく背中を叩かれ、冗談のプロポーズに絢斗の顔が真っ赤になった。
「そや、せっかく来てくれたのに茶も出さんのは、愛想なしやな。なんか飲むか?」
絢斗に背中を向け、哲司は冷蔵庫を開ける。Tシャツを揉み洗いしながら、絢斗はちらりと背中を見た。
「冷たい缶コーヒーやけどええか? なんやったら、カップに入れてチンしたるで」
広い背中にいたのは、赤い烏帽子と腕まくりをした緑色の狩衣に、ふくよかな顔で福耳のあぐらをかいた男の姿。釣り竿を持ち、小脇に真っ赤な鯛を抱えている。青い渦巻は波を表しているのだろうか。足元には小判と米俵。この姿はどこかで見たことがある。西宮市民なら、おなじみの神様だ。
「まあ、冷たいまんまでもええかな。ほら、置いとくで」
狭い調理スペースの上に缶コーヒーを置かれ、絢斗はハッと気づいた。ずっと哲司の背中をぼんやり眺めてしまっていたのだ。
「なんや、俺の背中気になるか?」
銀歯を見せてニヤリと笑う。失礼な奴、と思われただろうか。
「ご、ごめんなさい…」
「いや、謝らんでええ」
哲司が絢斗の髪をクシャッと撫でる。哲司は自分の分の缶コーヒーを開けると一口飲んで、また冷蔵庫の方を向いた。絢斗に背中がよく見えるように。
「これな、えべっさんやねん。商売繁盛の神様や。店出してもろたときに、おやっさんからのお祝いで彫らしてくれてん。俺がたこ焼き屋出す言うたら、彫り師のジジイが“ほんなら商売繁盛するように、えべっさんにしぃ”て勝手に決めて彫りよってん」
少し浅黒い背中に柔和な笑顔。哲司の笑顔の源は、このえびす神に由来するのだろうか。
「ほんまはもっとカッコええ龍とか虎とかにしたかったから反論したけどな、“じゃかましわ、小僧の分際で!”てジジイにピシャッとやられてな。彫られよう間めっちゃ痛ぁて涙出て、ジジイに“ほら見ぃ、小僧やから泣いてけつかる”とかぬかしよって、このクソジジイて思たけどな。けど今ではこのえべっさんは俺の守り神や。おかげさんで、商売も儲かっとうしな。ジジイに感謝や。昔気質のジジイでな、おしゃれタトゥーは軟弱もんがやるもんやゆうて、頑固一徹が服着てるみたいなやっちゃ。神戸におるねんけどな、今でもたまに挨拶に行くねん」
染み抜きが終わったTシャツを外の洗濯機に入れ、絢斗も缶コーヒーを飲んだ。ドアを開けたとき“うわっ、さぶ!”と哲司が身震いをした。上は何も着ず裸のままだった。二人は奥の六畳間に移動した。
「絢斗、えべっさんは何で釣り竿持っとうか知ってるか?」
「釣りが趣味やから?」
ちゃうちゃう、と哲司は笑い皺を作って豪快に笑う。
「網で大量に魚捕ったら、利益を独り占めしてまうやろ? せやから、利益をみんなでわけられるように、欲張らんように、らしいで」
ベッドに腰掛け、絢斗も隣に腰掛けた。並んで缶コーヒーを飲みながら、哲司はえびす神のことを話す。
「えべっさんはな、子供のころ、両親に捨てられて海に流されてん。そんで流れ着いたんがこの西宮や」
哲司が毎年たこ焼き屋を出す西宮神社。そこではえびす神が奉られている。
「耳遠い神さんやからな、大阪の今宮戎では本殿の壁叩いてお願い事するらしいで」
西宮神社では初詣や十日戎のほか、近年では宮水まつりといって日本酒メーカーが開催する祭りもあり賑やかだ。
「絢斗が酒飲めるようになったら、日本酒の飲み比べ行かなあかんな」
また、哲司との約束事が増えた。何もすることがなく無気力だった絢斗が部活に戻れたのも、哲司のおかげかもしれない。哲司が福をもたらしてくれたのだ。
そう思うと、チャンスが今しか無いように思える。
「てっちゃん…えべっさんに触っていい? ご利益ありますように」
「おお、ええで。韋駄天さんと違うから、絢斗の脚にご利益あるかどうかわからへんで」
哲司が体をひねり、背中を絢斗の方に向けた。絢斗はゆっくり手を伸ばし、えびす神のふくよかな笑顔に触れてみた。背中が温かい。それはえびす神の笑顔みたいな温かさで、同時に哲司の人柄の温かさもあるのだろう。
一瞬、手のひらがビクッと震えた。頬を当ててみたい、背中に抱きついてみたい、そんな衝動に駆られた。過剰な接触は、大誠を思い出してしまう。こちらの意図など確かめず、キスをしたり股間を触ったり――自分の衝動が、大誠の行動と重なってしまい、そんな感情は醜いと思った。
哲司に動揺していることを悟られないよう、絢斗は手を引っこめた。
「ありがとう、脚はどうかわからんけど、俺も将来商売したら儲かる気がするわ」
「そうか、ほんなら、儲けの一割ぐらいもらわんとあかんな」
笑いながらこちらを向いた哲司は、当然なのだが乳首があらわになっている。今更ながら哲司の上半身が裸だということを意識してしまう。
その後、部屋に帰った絢斗だが、どうしても背中に触れた感触とあらわになった乳首が頭から離れなかった。これでは大誠と同じだ、変態みたいだ、と思いながらも反応する下半身を抑えることができず、喜美子が夜勤なのが幸いして、絢斗は布団の中で硬くなったペニスを慰めた。
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