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第23話

「あかん、絢斗、口離せ!」  哲司が絢斗の肩を押しのけた。枕元にあったティッシュを急いで何枚も取り、勢いよく出る精液を受け止めた。 「枕元にティッシュ置いてるとか、用意いいやん」  少し棘のある言い方になってしまった。女性を連れこんでこのベッドの上でセックスをしたのだろうか。浮気を疑うような妻みたいな言い方に、哲司は気まずそうに先端を拭く。 「お前も男やったらわかるやろ。もう何年も女連れこんでへんわ」  現在彼女がいない哲司がベッドでティッシュを使うのは、ほぼ自慰のためだ。それでも絢斗には、“もう何年も”の言葉が引っかかる。 「てっちゃん、女性とヤッたことあるん…?」 「ああ、初めては中三のときかな。最後にヤッたんは、もう三年前かな。漫画みたいな話やけど、チンピラに絡まれてた女の子助けてな。で、向こうから告白されたけど、なんせ宝塚に住んどうお嬢様やから、向こうの両親に反対されて破局や」  彼女の将来を考えれば駆け落ちするわけにもいかず、それ以来彼女はどうしているのかはわからない。 「その人のこと、忘れられへん…?」 「ええ女やったけどな、俺みたいなヤクザもんよりええ男見つけた方が幸せやろ。もう未練はないわ」  お嬢様育ちの女性が、暴力団に所属する男と付き合って結婚すれば、本人たちはお互いの気持ちがあればそれで充分だろうが、周囲が黙っていないはずだ。駆け落ちをしても、両親と和解できない状態では、後悔しながら生きていくに違いない。 「ほんなら、男同士やったら結婚とか何も考えんでええし、俺と付き合って」 「無茶言うなや! 俺といっしょなってみい、お母さんが悲しむで。せめて孫の顔だけでも見せたれや」  絢斗の気も済んだろうと、Tシャツを着た哲司は、再び絢斗に押し倒された。 「いやや! てっちゃんと付き合いたい! 俺が幸せにするから! お母さんも悲しませへんから!」  何を根拠にそんなことを言うのか。Tシャツだけで下は裸のままの情けない格好で、哲司は疑問に思う。 「あ…あのな、仮に俺と絢斗が付き合ったとして、青少年なんやら条例にひっかかるやろ」 「お互いが真剣に好きやったら、問題ないはずやで」 「でもなぁ…」 「じゃあ、俺が高校卒業するまで待って!」  どうしても絢斗は引き下がらない。しばらく待てば、頭が冷えるかもしれない。だが本気で好きになったとしたら、いくら待っても気持ちは変わらないだろう。哲司はベッドの上であぐらをかき、膝を叩いて気合を入れた。 「よし、約束や。絢斗が高校卒業して、まだ同じ気持ちやったら、そのときには付き合お。約束や」 「ほんまに…?」 「男に二言は無い!」  哲司の思い切りのよさに、絢斗は夕暮れのできごとを忘れてしまいそうになる。嫌な気持ちを抱えたままで学校生活を過ごさなくてはならないという憂鬱から、卒業すれば哲司と付き合えるという希望に変わる。  あと一年三か月と少し。長い人生のうちで、たったそれだけだ。その間、何も変わらずにいられる、絢斗はそう思っていた。  翌日から、なるべく絢斗は大誠に会わないよう、休み時間はほとんど教室にいて、移動教室の際もクラスメイトといっしょにいるようにし、学食にはあまり出入りしないように注意し、購買部もほとんど使わないようにした。  部活の時間が怖い。その時間、絢斗がどこにいるのか、着替えた後、どこを通って自転車置き場にいるのか、どこを通って帰っているのか、大誠には全てお見通しだ。今日も部活だが、どこかで大誠が見ていないか、無意識に辺りを見回してしまう。  ふと、グラウンドと歩道を遮る鉄柵の向こうに、哲司の姿が見えた。 「あ、よかった、絢斗ー!」  哲司がこちらに向かって手を振っている。絢斗は柵に駆け寄った。まるで牢屋越しに話すみたいに、二人は鉄柵を隔てて話した。 「てっちゃん、何か用?」 「この間言うてたあいつ、児島…とかいう三年生やったっけ? まだ学校におるん?」  その名を聞いて、絢斗の心臓が跳ねる。あまり聞きたくない名前だ。絢斗が辺りを見回すと、ちょうど大誠が校門を出るところだった。友人二人といっしょた。絢斗は指をさした。 「あ、あそこにいてる。三人、門から出ていくやん。あの真ん中にいてる」  そうか、と哲司は校門目指してかけて行った。もしや、哲司は大誠に報復するために来たのだろうか。晩秋の寒さではない震えに襲われ、絢斗も校門まで走って行った。何かあれば、哲司を止めないといけない。  門を出た後、哲司が三人の前に立ちふさがる。 「なあ、児島くん。ちょっとええか」 「あ、てっちゃん」  三人のうち、大誠の右側にいた生徒が思わず口にした。 「何、知ってる人?」  左側の生徒が尋ねる。名前を呼ばれた大誠は、驚きのあまり声も出ない。いきなり見知らぬ、目つきが鋭くガタイのいい男が、声をかけてきたのだ。 「ほら、イナイチ沿いのたこ焼き屋さんの」  そう聞いて、大誠の顔は青ざめる。野球部の連中がよく行っていると聞く。たこ焼き屋『てっちゃん』。店主は背中にモンモンの入ったヤクザやて。生徒たちも何人かは、哲司がその筋の人だということを知っている。  なぜ、そんな男が自分の名前を知っているのかがわからない。何も言えないまま、逃げるタイミングも逃してしまった。 「頼むわ、もうあいつに手ぇ出さんといてや」 「あ…あいつって…」 「わかるやろ? あんたが身も心もボロボロにしたんやからな」  静かな物の言い方だが、目線が上にある。それ以上何かを尋ねて機嫌を損ねたくない大誠は、必死に“あいつ”の正体を考える。その“あいつ”は、三人の後ろでハラハラしながら見守っている。 「も…もしかして…絢斗…」  蚊の鳴くような声で答える大誠に、哲司はうなずいた。どう返事をしていいのか迷う大誠の前で、哲司の体が動いた。瞬時に“殺される!”と思った大誠は体をこわばらせた。だが、哲司はいきなり地面に両手をつき、頭を下げたのだった。 「頼みます! あいつはめっちゃ傷ついてる。あんたの気持ちもあるやろうけど、今後は卑怯な手を使わんといてほしいんや。男やったら、優しく見守ってやって。頼むわ!」  まさかの土下座に、三人ともオロオロするばかりだ。哲司は頭を下げたまま。地面に額が擦れそうなほどだ。 「た、大誠、何があったん?」  そう聞かれても、まさか絢斗を犯したなどとは口がさけても言えない。 「お、お願いですから、顔を上げてください。言うとおりにしますから」  大誠にそう言われ、哲司は立ち上がる。門を出たほかの生徒や、通りがかった人たちが、不思議そうに見ていく。一番恥ずかしい思いをしているのは大誠だ。 「約束…してくれるか?」 「はい…」  一転して、哲司は銀歯を見せて笑顔になる。 「そうか、ありがとな!」  無理やり大誠の右手を取り、握手をする。 「気が向いたら、『てっちゃん』にたこ焼き食べに来てなー! ジュース奢ったるわ!」  何気に店の宣伝をし、手を振って爽やかな笑顔で哲司はその場を去った。  その後、大誠は友人たちに訳を話すのに四苦八苦し、絢斗は胸をなで下ろした。哲司の意外な行動に、思い出し笑いをしてしまう。そういえばあの事件以来、まともに笑うことがなかった。えびす男の哲司が、えびす顔を取り戻してくれたのだ。

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