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第25話
三が日が終わり、短い冬休みはあっという間に終わった。だが、西宮市民の正月はまだまだだ。十日戎が終わるまで、正月気分が抜けない。
一月十日、午前五時。西宮神社の赤門前には、早朝にも関わらず数百人の男たちが集まっている。近くの駐車場には、哲司の白い軽トラックが停まっている。中には絢斗の制服とバッグがあった。福男選びで走った後、絢斗は登校しなくてはならない。
冷たい風になぶられ、涙が出る。耳がちぎれそうなほど痛い。雪が降らないだけマシだが、外気は冷蔵庫の中よりも冷たい。
陸上部のジャージ姿で何度も足踏みしながら、絢斗は体を温める。だが、寒すぎてウォームアップにならない。爪先が痛い。
「寒いなあ~。箱根駅伝の選手、ようこんな寒い中走るなあ」
足踏みのスピードを上げながら言う絢斗は、隣の哲司を見た。
「…おう」
ニットの上に革ジャンを羽織り、顔の半分はマフラーで隠れ、ニット帽で耳を隠し、アンダーシャツの上から使い捨てカイロをいくつも張り付けた哲司は、ポケットに手をつっこんだまま背中を丸めている。
「どないしたん? 今から走るっていう気力が見えへんで」
「せやかて、昨夜はあんまり寝てへんしクソ寒いし…変な時間に起きたから腹へっとうし…最悪や」
自分から福男選びに走ろうと言い出しておいて、不平不満しか出てこない。そんな哲司に、絢斗は吹き出した。
「情けないなあ、若いくせに」
「俺もテキ屋やから、朝や夜中の寒いのはようわかっとうけど…。今日はめっちゃ冷えるやん。昨日の方がぬくかったで」
前日の昼間は十六度を超え、一月とは思えない温かさだった。それもあり、今日は一段と寒さを感じる。予報では最高気温が十度まで上がらないそうだ。
長距離走なら、走っている間に体が温まる。だが、絢斗のような短距離走は、体が温まる前に競技が終わる。走るまでに体を温め筋肉をほぐさないと怪我のもとになるが、いくら体を動かしてもなかなか温まらない。
「家出る前に、てっちゃんが抱きしめてくれたらなあ」
絢斗のつぶやきに、哲司の鼻が真っ赤になる。帽子からはみ出た耳たぶも赤い。
「アホ言うな! しばくぞ!」
全く怖さを感じさせない威嚇に、絢斗の胸のあたりが温かくなる。それだけで、ウォームアップは充分だった。
午前六時、重厚な赤門がゆっくりと開く。人が通る隙間ができたと同時に、一斉に男たちがなだれこんだ。水門を開いたときのように、人という水があふれ出る。あふれ出た水は鉄砲水となり、一気に本殿を目指す。
おでん屋、お好み焼き屋からいい匂いが冬の風とともに運ばれる。太鼓の音、笛の音。すり鉦 の音も混じり、まだ朝日は見えないのにもうお祭りムードなのだが、走っている男たちはそれどころではない。途中カーブのところがあり、男たちが多数つまづく。つまづく者にぶつかり、こける者もいる。その男たちの塊の中に哲司がいた。
「てっちゃん!」
振り向いた瞬間に、何人ものライバルに越された。
「俺に構わず行け!」
戦場の兵士みたいな台詞を残す哲司をそのままにしておけず、絢斗は哲司のもとに走り寄り、立ち上がりかけた哲司に手を差しのべた。
「アホ! 俺に構ってたら遅れるやんけ!」
「俺は一位とかいらんねん! てっちゃんとゴールしたいんや!」
呆気にとられ、哲司は絢斗を見上げる。無意識に手を取り立ち上がり、今度は絢斗を見下ろしていた。
そうこうしているうちに、人々がどんどん追い越していく。トップはとっくに本殿にたどり着いている。それでも絢斗と哲司は、そこからまた走り始めた。
どちらからともなく手を繋ぎ、笑いながら本殿を目指す。福男になるために走るというより、西田公園で大谷の姿を見た子供たちが、紙芝居の特等席を取るみたいな走り方だった。
二人が本殿についたとき福男はもう決まっていて、二人はほぼ最下位だったが、それでも清々しい気分だった。男たちの中には、一位を目指して走っているわけではない者も大勢いるかもしれない、そんな気がしてしまう。
笹を持った人々が集まって来た。商売人は開店前に福笹を買いに来る。だから早朝から神社は賑わっている。人混みの本殿にいると、寒さを忘れてしまう。
池のそばに、赤い毛氈の床几台がいくつも並んでいる。甘酒の店だ。しばらく休んだ哲司は、甘酒二つとゆで玉子二つを買った。床几台はすでに何人かで埋まっていて、絢斗と哲司は狭いスペースで肩を寄せ合って座った。
「あ~あったまるなあ」
ほんのりショウガが香る甘酒で体を温める。外気は熱々の甘酒をすぐに冷ましてしまうほどだったが、それでも酒粕とショウガが、体を温めてくれる。少し硬めのゆで玉子も、こうして外で食べると遠足気分だ。
正月の夜店に、福男選び。哲司といっしょにいて、初めての経験がいろいろとできる。
「てっちゃん、ありがとう」
「ええってええって、甘酒と玉子ぐらい」
「いや、それだけやなくて、いっしょに走ってくれて、いっぱい楽しいこと教えてもらって」
あまり言い過ぎると、また哲司が照れてしまう。実際、哲司は飲み終えた湯飲みを手の中で温めて手持無沙汰なふうを装っているが、どうやら照れているみたいだ。
「絢斗、今年はええことあるで」
「ほんま?」
「ああ、背中にえべっさん背負てる男を連れてフィニッシュしたんやからな」
銀歯を見せてにっこり笑う。絢斗には哲司の背中のえびす神もご利益だが、哲司の笑顔にもご利益がありそうだ。
「最下位やったけど?」
少し意地悪に言ってみる。それでも哲司はめげない。
「残り福や」
太鼓の音、笛の音。すり鉦の音に、人々の雑踏。その中で哲司のつぶやきだけが、絢斗の胸の中に響く。
「残りもんには福があるんや。最後の最後に、ええことがある。せやから、絢斗は今年のラッキーボーイや。国体行けるかもしれへんで」
辺りはもう明るい。先ほどまでの男たちの熱い戦いを知らない人々の、一日が始まる。
「おや、お二人さん。早いな」
床几台に、大谷が座る。大谷も甘酒の湯飲みを持っていた。
「おはようさん。まさかおっちゃんも福男選びに走ったん?」
哲司が驚いて言うと、大谷は愉快そうに笑う。
「アホ言いな。この歳で走れるかいな。散歩のついでに来たんや。毎年、ここの甘酒と煮抜き(固茹で卵)が楽しみでな」
二人の成績を聞いた大谷は残念そうにしてたが、また来年頑張りやと言い残し、席を立った。
時間がたつのは早く、もう登校しなければならない時間だ。甘酒とゆで玉子が朝食になった絢斗は、哲司の“残り福”を胸に学校に向かった。
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