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第28話

「梅塚のおばちゃん!」  ピンク色の熊の着ぐるみ姿でリカが駆け寄ってきた。ピンクの熊は砂まみれで、ところどころ茶色くなっている。寝ていたときに起きた地震だったので、化粧っ気の無い顔だ。江田もいる。スウェットの上にダウンジャケットを羽織っている。江田の顔は真っ青だった。  二人は瓦礫の中から這い出してきた。リカは裏側の家の人がジャッキやスコップなどを使って壁を壊し、そこから助け出された。江田は自力でガラス窓を割って出てきた。  実家に帰省中の哲司はおらず、あとは一階の絢斗、荒井、大谷がいるのだが、外から声をかけても返事が無い。  隣の大家宅や周囲の住宅も傾いて、住める状態ではない。パジャマの上から上着を羽織り、髪が乱れたままの大家夫妻も心配そうにオダマキ荘を見つめている。 「大家さんが、消防署に電話してくれてん。でも、こんな状態の家がめっちゃ多いから、いつ到着するかわからへんて…」  力なく立ち上がり、喜美子はオダマキ荘にフラフラと近づく。一階部分が全く見えない。傾いた平屋のようだ。 「危ないですよ、梅塚さん! 救急隊を待ってください」  大家に腕を引っ張られ、喜美子は我に返る。もしも絢斗が無事なら、一秒でも早く出してあげたい。温かい場所で湯気の立つ食事を取らせてあげたい。そう考えると、素手で瓦礫を押しのけてでも救い出したいと思ったのだ。  日が高くなってきていた。時刻は午前十一時。ようやく救助の車両が到着した。だが、来たのは救急車でも消防車でもなく、自衛隊の大型トラックだった。中から十人ほどの自衛隊員が出てきた。迷彩柄の服で、ヘルメットを着用している。おそらく定員いっぱいで出動したのだろうが、半分は別の場所で作業中なのだろう。彼らはこれから、不眠不休で人命救助に当たる。  隊員たちは大きなスコップを手に、瓦礫を上り始める。手際よく屋根瓦を取り除き、慎重に壁を壊し、中の人に声をかける。  明かりが見えた。埋まったときはまだ外は暗かった。あれから何時間たったのか。布団がクッションになり、壁や家具での圧死から運よく逃れた。頭の真上は天井だった。天井がくり抜かれ、ヘルメットを被った見知らぬ男性が絢斗に声をかけた。 「無事ですか? 返事できますか?」  その恰好からなんとなく荒井を連想した。隣の荒井は無事だろうか。その隣の大谷も。 「はい、なんとか…。足が挟まってます」 「感覚はある?」  絢斗は爪先を動かしてみた。指は全部動く。 「はい、指は動きます」  隊員たちが相談をしている。クラッシュ症候群、そんな言葉も出た。家具や塀などに長時間圧迫されていると、血液が長時間止まり、その部分に壊死が起こる。圧迫していた物をどけることにより血流が戻るが、同時に溜まっていた毒素も体中をめぐり、死に至ることもある。  幸い、絢斗は分厚い布団のおかげで、クラッシュ症候群の兆候は見られず、隊員たちの手によって無事救出された。両脇を二人の隊員に抱えられたとき、絢斗は隊員に話した。 「隣と…その隣にも住人がいます。二階の人は無事ですか?」 「二階の人は無事らしいよ。一人だけ、家にいなかったらしいけど」  哲司は仁川の実家だ。どうしているだろうか。妹が出産直後だという。赤ちゃんも無事だろうか。心配しながら、絢斗は瓦礫を下りていく。靴は取り出せない。裸足でしかもパジャマのままだ。外は寒い。 「絢斗!」  喜美子が泣きながら駆け寄り、絢斗を抱きしめる。この歳で母親に抱きしめられるのは困るが、この状況では仕方がない。それに、喜美子の体温は温かかった。喜美子が夜勤でよかった。もし四畳半の部屋で寝ていたら、完全に押しつぶされていた。この体温さえ感じることはなかったのだ。  近所の人が、靴や上着を持ち寄ってくれていた。絢斗はワンサイズ大きいスニーカーと紺色の年寄りくさいジャンパーをもらった。それでもありがたかった。  しばらくすると、荒井も救出された。荒井も衣類や靴などを持ち出せる状態ではなく、近所の人から上着とスリッパをもらった。体が大きいため合うサイズの物がなかなか無く、袖が短く前をかき合わせても襟が届かないドテラを着るので精一杯だ。靴もサイズが無いため、スリッパぐらいしか無かった。  絢斗も荒井も無事だったのだが、動くことができなかった。荒井は中から声を出したが、瓦礫に埋まっている状態では声は外に届かない。外からの声は聞こえるというのに。  住人たちは、大谷の無事を祈りながら、救助の様子を見守っていた。  壁を取り除き床を割り、一階部分に到達する。隊員たちが必死に声をかける。しばらくして、隊員たちの動きに変化があった。一人が担架を持ってきた。三人がかりで大谷が担ぎ出される。早起きの大谷は、パジャマではなくニットとジャージ素材のズボンだった。  瓦礫を下り、大谷は担架に乗せられた。大谷も助け出され、住人たちは安堵の表情を浮かべたが、すぐに笑顔が消えた。大谷の体は頭の先まで毛布にくるまれた。隊員たちがヘルメットを脱ぎ、黙祷を捧げる。大谷が見つかった場所は、台所の辺りだった。朝食の準備か、顔を洗うところだったのだろう。絢斗や荒井のように布団にいれば、助かっていたかもしれない。だが、現実は覆せない。帰らぬ人となった、冷たい体の大谷がそこにいる。 「なん…でや…」  荒井の声が震えていた。 「なんでや! なんで大谷のおっちゃんだけ!」  みんなはうつむいてしまった。絢斗の頬に涙が一筋流れた。数日前、いっしょに甘酒を飲んだのに。あの笑顔がもう見られない。災害は恐ろしい。たった一瞬で人の運命を変えてしまう。昨日と変わらない日常が、今日も続く。そんな当たり前のことを覆してしまう。  あまりにも現実的でない事実に呆然としてしまい、絢斗が黙祷を捧げるのを忘れてしまったことに気づいたときには、大谷の遺体はすでに運び去られた後だった。

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