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第33話
震災から三週間。避難所からは少しずつ人が減っていく。江田はかつてアシスタントをしていた漫画家と連絡がつき、その漫画家の紹介で大阪のアパートに住むことになった。貯金はほとんどないが、後に義援金が入る。江田は借金をして敷金や礼金を支払った。漫画だけでは食べていくことが難しいため、近所でアルバイトもする。
荒井は勤務先の鉄工所近くの仮設住宅に当選した。鉄工所も水道管の破裂で水浸しだったが、なんとか再開できるまでに修復できた。
リカは隣の尼崎市に住む友人と同居し、大阪・梅田のブティックでアルバイトをする。
三人は半壊した大家の家のポストに連絡先を記入した紙を入れ、それぞれの場所へと発つ。大谷の詐欺事件以来ひとつにまとまろうとしていたオダマキ荘は、バラバラになってしまった。
絢斗は喜美子とともに避難所に残っていて、そこから学校にも通っているが、まだまともに授業らしい授業ができない。家が全壊したり火事に遭った者は教科書が無い。持っている人に見せてもらう。教科書やノートが無くても勉強がしやすいよう、教師はプリントを作る。
体育館が避難所になっているため、バレー部やバスケ部や卓球部などは練習ができない。柔道場も物資置き場になっている。
校庭は炊き出しや風呂、救援物資を運ぶトラックの駐車場となっているため、野球部は空いたスペースで素振りやキャッチボール、サッカー部はリフティングやドリブル、ラダーを置いてトレーニング、を繰り返す。テニス部も素振りや壁打ちといった状態で、日常にはまだまだ遠い。
絢斗の陸上部も、縄跳びや非常階段の上り下りで足腰を鍛える運動だ。長距離の部員は学校外を走れるが、短距離走は道路を走ると危険なため、そうもいかない。絢斗は非常階段を上り下りし、少しでも体を運動に慣れさせようとしていた。
「梅塚、ちょっと」
非常階段を駆け下りてきた絢斗は、顧問から呼び出された。脇に腰掛けさせ、顧問は絢斗の右ふくらはぎをギュッと握った。
「いたっ」
「やっぱり痛むのか? 見たら右側が腫れとったみたいやったからな。いつからや」
「えーと…地震のとき、家具に足挟まれて、そのときは大丈夫やったけど、気がついたら何となく痛いなって」
「そらアカン。一回医者行ってみ。ちょっと保健室で診てもらうか」
顧問に付き添われ、絢斗は保健室に来た。ベッドで横になり、養護教諭に診察してもらう。ふくらはぎを何度も押してみて絢斗の表情と見比べ、養護教諭は難しい顔をした。
「病院で詳しい検査をしてもらってください。放置してると危ないかもしれません」
部活を途中で切り上げた絢斗は、避難所に戻った。久しぶりの休みだが喜美子は体調不良の避難者の看護をボランティアでしていた。その喜美子に、足が痛いことを告げた。
「じゃあ、今から病院行ってみる?」
喜美子が勤務している病院までは距離があり、電車もまだ復旧していない。絢斗は喜美子に付き添われ、避難所から近い病院に来た。
その病院でも震災による怪我や火傷の患者のほか、避難所でインフルエンザに感染した患者も大勢いる。長い間待たされ、絢斗は外科の外来を受診した。
震災のとき、家具に挟まれていたこと、そのときは気づかなかったが、日を追うごとに痛みが増していて、部活の最中に顧問に腫れを指摘されたことを話すと、医師も養護教諭と同様、難しい表情になった。
「…静脈瘤やね。珍しい病気でもないし、治療はできるけど」
その言葉に安心した絢斗だが、医師の表情は和らがない。
「でも、長期間放置してたからね。部活には影響が出る」
「影響って…」
「もう少し遅れてたら、完全に壊死してた。そのぐらい悪い症状やからね。今までのように速く走ることはできんよ」
一気に奈落に落とされた気分だった。足を切断しないよりはましだろうが、スプリンターである絢斗にとっては命取りだ。せっかく、生き甲斐をみつけたのに。今年の一月十六日までは、生き甲斐にあふれていた。哲司がいて、部活も楽しい。卒業したら、哲司と付き合える。大学で思い切り走れる。そう思っていたのに、両方の夢が断ち切られた。
絢斗には、後に何が残るのだろう。
「手術と入院の必要があるからね。あ、お母さん呼んでもらえるかな」
そばにいた看護師に、喜美子を呼んでもらって話をした。喜美子も看護師で症状はよくわかっているため、話は早かった。
「私がそばにいながら、気づかずにいたやなんて…」
「しょうがないですよ。普段、ズボンで足は隠れてますから。今気が付いただけも、命に関わることがないんでよかったですよ」
医師はそう言うが、走ることを楽しみにしていた絢斗は、これから何をしていいのかわからない。相談したい哲司もいない。
また、振出しに戻ってしまった。
その後、手術をして三日間入院した。久しぶりにまともな布団で寝ることができる。風呂には入れず体を拭くだけだが、それでも布団の心地よさは格別だ。
そんな絢斗だが、やはり気分は晴れない。もう記録を伸ばすことはできない。今年こそ、県大会に出られると思ったのに。いや、頑張ればインターハイを目指せたかもしれない。そこでもし、いい成績が取れたなら、スポーツ好きの哲司のことだ、新聞か何かで絢斗の名前を見るだろう。そうしたら連絡をくれるかもしれない。大会に出ずとも、哲司は絢斗の居場所を知っている。絢斗が通う学校を知っている。それならば学校に会いに来てくれてもいいのだが。哲司は来ることができないのだ。何らかの理由で。いくつかの考えられる理由のうち、たったひとつ、哲司がこの世にいないのではという可能性だけを必死に封印しようとする。だが、心の奥底に沈めるほど、その可能性は反発して浮かび上がる。
絢斗は周囲の患者に気づかれぬよう声を殺し、枕を濡らしていた。
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