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第34話

 今日が退院の日。また、あの冷たく硬い床の避難所に戻るのかと退院の喜びを嚙みしめることができない絢斗だったが、向かったのは小学校ではなく、近くの仮設住宅だった。全壊した住宅を撤去し、その土地を市が買い取り、仮設住宅が設置された。プレハブ住宅で靴を脱ぐだけがやっとの玄関、小さなユニットバスにトイレ、調理台がほとんどない狭い台所に、四畳半の部屋が二つ。それに比べれば、オダマキ荘の方がよほど優れている。4LDKの分譲マンションから2DKの木造文化住宅、プレハブの2K、と住む家のグレードがだんだん悪くなるが、贅沢は言えない。途中に挟んだ避難所よりははるかにいい。音は筒抜けだが、プライバシーは守られる。風呂やトイレが使える。布団で寝ることができる。  二十万円の義援金が出たため、家財道具を買うことができた。冷蔵庫やテレビや電子レンジもある。今後、何度かに分けて義援金は支給される。生活には困らない。だが、そこはあくまでも仮設住宅だ。いずれは出て行かなくてはならない。  競争倍率が高い仮設住宅のため、奇跡的に入れたことに絢斗は疑問に思う。だが、その疑問は喜美子の説明ですぐに解けた。 「前に高齢のおばあさんが一人で住んでたけど、インフルエンザに感染してそれが元で肺炎になって亡くなったから、空きが出たらしいねん」  亡くなったのは病院だが、それでもあまりいい気はしない。両隣のお年寄りから、亡くなったおばあさんの話ばかりを繰り返し聞かされて、うんざりしてしまう。  哲司に会えずスプリンターとしての希望を失った。さらに“孤独な老人同士せっかく仲良くなりかけたのに、亡くなってしまった人の場所に入り込んできた若者”として見られている気がして、滅入ってしまう。実際、お年寄りたちが話を繰り返すのは、仕方のないことだ。だが、絢斗には理解できない。ストレスだけが溜まる一方だった。  震災からちょうど一ヶ月。電気は完全に復旧した。水道とガスはまだ完全とはいえず、給水車を待ち調理も電子レンジやカセットコンロのみ、という状態の家庭もある。  絢斗はまた、陸上部を退部した。マネージャーとして部に残る方法もあるが、絢斗自身の足で走りたいのだ。ほかの部員が走るのを見ているとつらくなる。  こんなとき哲司がいてくれたら、と絢斗は考える。いつものように『てっちゃん』に行き悩みを打ち明けたら、哲司は何と答えるだろうか。哲司の弟子にしてほしいと言ったら、たこ焼き屋を手伝わせてくれるだろうか。  あの匂いが懐かしい。醤油とねぎと、紅しょうが。ほんのり、エビの香りもする。その匂いに混じり、煙草の煙。哲司は絢斗以外の客の前では絶対に吸わない。なぜだろうか。哲司は絢斗を特別扱いしていたのだろうか。客として見てくれていない、そう考えただけでも嬉しい。哲司にとって絢斗は、ただの客ではないのだ。  匂いと同時に、せなかの“えべっさん”が思い出される。福を呼ぶ神を背中に宿した男だ。きっと、元気でいるはずだ。そう考えていないと、絢斗は絶望に押しつぶされてしまう。  だが、希望も持てず空虚な毎日が続き、春休みに入ってしまった。  三月の末。桜が咲き始め、気候が温かくなったころ。甲子園球場では、無理だと思われた選抜高校野球が開催されている。少しずつ復興が進んでいる象徴でもある。  仮設住宅に大家が訪ねてきた。オダマキ荘を取り壊すので、持ち出したい荷物があれば引き取りに来てほしい、とのことだった。絢斗たちが住んでいる仮設住宅は、オダマキ荘から徒歩五分ほどの場所だ。だが、引っ越してからはオダマキ荘に行ってない。  絢斗が淡い期待に胸を躍らせる。哲司にも連絡が行っているはずだろう。  穏やかな日曜日の午後、崩れたアパートの前には解体業者のトラックと、たった一ヶ月の間なのに懐かしいと思える面々――荒井、リカ、江田が立っていた。 「ケンちゃん! 元気にしてた?」 「ええ、まあ…。この近くの仮設にいてます」  元気かどうかと聞かれたら、元気と答えるしかないだろう。“地震のときのケガでもう、今までのように走れない”と、自分の傷を広げて見せる必要はない。  そう聞いてきたリカも、どことなく明るさはない。地震のショックが消えない今、こうして全壊したアパートの前にいる。また、あの時の恐怖が蘇ってしまうのだ。  哲司はいない。せっかく会えると思ったのに。絢斗はがっかりして、そばで立ち会っている大家夫妻に哲司のことを訪ねた。二人はため息をつく。夫人がぼそりとつぶやいた。 「それがねえ…連絡つかないんよ。携帯電話は繋がらんし、ご実家の電話にも…。どこでどうされているか…」  ますます絢斗は希望を失った。哲司に会いに行く術はない。仁川に行って、片っ端から“加賀谷”という家を探してみようか。そんなことを考えてみた。  そこに、四十代半ばから後半とおぼしき男女が現れ、大家夫妻にお辞儀をした。男性の方が口を開く。 「すみません、ここに住んでいた大谷の息子です。先日お電話いただいて…。こっちは僕の妹で」 「まあ、わざわざすみません」  災害で父親が急逝したのだ。どれほどの悲しみを抱えているのだろうかと、オダマキ荘の住人たちは声をかけるのをためらい、会釈だけにとどめた。二人に、紙芝居のおっちゃんと呼ばれて親しまれていましたよ、と言いたい気持ちを胸に秘めながら。

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