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第36話
荒井の隣、大谷が住んでいた部屋の解体作業が始まり、息子と娘が立ち合った。大谷の部屋の真上は、大谷救出の際に自衛隊によって大きく開けられていた。そのためタンスなどの収納家具はすべて荒らされていた。だが、無惨に割れて変形していた仏壇の引き出しが二重底であったことに、火事場泥棒は気づかなかったようだ。大谷の息子と娘は、以前に住んでいた家で見たのだろう。父親が二重底の引き出しから、貴重品を出し入れしていたのを。二人がかりで仏壇を起こし、二重底の引き出しから現金と預金通帳や印鑑を見つけ、それらを持ち帰ろうとした。
「ちょっと待ってください」
荒井の声に、二人が振り返る。
「大谷のおっちゃんとこ、仏壇に位牌があるはずなんです。見つかりませんでしたか?」
兄妹は顔を見合わせた。妹の方が、愛想笑いで答える。
「うちはね、どっちも仏壇が無いから、そういうの置けなくて」
荒井が大股で、二人に近づく。
「そんな言い方ないやろ! あんたらの母親や先祖の位牌やで! 仏壇のうても置けるやろ!」
兄妹の態度に腹を立て、荒井は今にもつかみかかりそうな勢いだった。
「大事なんは現金だけかい! 父親ひとりでアパートに済ませて何の音沙汰も無しで?! 育ててもらった恩も忘れて遺品の一つも持って行かんと、金だけ持って行くんかい!」
「荒井さん、もうええよ」
大家の妻が荒井をなだめる。代わって前に出て、できるだけの笑顔で対応した。
「お位牌はお寺で供養やお焚き上げができますから、ご相談なさってはどうでしょう」
兄妹は答えない。そんな面倒なこと、というのが顔に表れている。
「あ…あの…」
後ろから江田が遠慮がちに声をかける。
「この紙芝居…僕がもらってもいいですか…」
江田が手にしているのは、大谷のお手製紙芝居。木の枠に入っていて、中は奇跡的に無事だ。
「大谷さんに、僕が紙芝居の絵を描くって約束したんです。でも、それが果たせなくて…。あ、あの…お差し支えなかったら、お詫びの代わりに…僕にその供養、代行させてもらえませんか…」
兄妹は顔を見合わせると、「お願いします」とだけ言って足早に立ち去った。
「なんじゃい! それだけか!」
「も、もうやめて荒井君…」
弱々しい声で引き止めた江田だが。
「僕が責任持って、お位牌持ってお寺に行く。それと、おっちゃんの『ミラクルマン』は、絶対に死なせへんから」
眼鏡の奥の目には、強い決意があった。
四月、電車が復旧し、喜美子は電車通勤ができるようになった。水道、ガス、電気もほとんど復旧し、倒壊や全焼した住宅は撤去され、更地となっている所もある。
徐々に町が生まれ変わりつつあるが、日を追うごとに死者の数が増えていく。瓦礫の底や焼け跡から見つかる死者のほか、入院中に亡くなる者、避難所でのインフルエンザ感染による肺炎での死亡、仮設住宅での孤独死。隣人のことをよく知らない者同士で暮らしていると、急な発作などで倒れても誰もわからない。自宅と離れた仮設住宅に住んでいるため、以前の病院に通えず薬が無く、病状が悪化して亡くなるケースもある。市内だけで死者は千人を超えた。
新学期が始まった。体育館には、まだわずかだが避難者が残っているため、体育館での授業や部活ができない。絢斗も普段の生活に戻っているとはいえ、仮設住宅だ。いずれは出て行かなくてはならない。まだまだ普通の日常に戻るのは先になりそうだ。
教室では、担任教師が生徒たちにプリントを配る。絢斗の担任は、去年と同じ女性教諭だ。
「その紙に進路先を書いて提出してもらいます。一学期の終わりに三者面談があるからそのときに話もできるし、二学期にももう一度書いてもらうから、あくまでも今の段階での希望としてね」
絢斗には志望校はなかった。怪我をする前で哲司も無事でいたなら、関学の名前を書いただろう。だが、思うように走れない今、何を書けばいいだろう。
名前以外は空白のまま、進路希望の紙は新しい教科書といっしょに引き出しに入れた状態で、何日も過ごす。
気候は穏やかで暖かい春。だが、暗い事件が起きる。隣からかすかに異臭がするのだ。その臭いに、風呂から出たばかりの喜美子がいち早く気づく。パジャマを羽織り、濡れた髪で慌てて出て行き、隣のドアを叩く。返事がないため、喜美子は警察に電話をした。駆けつけた警察官がドアを破ると、布団に横たわって亡くなっている老人が発見された。
独居老人がいる家、ましてや仮設住宅においては、珍しくないケースだという。絢斗も話には聞いていたが、目の当たりにするとトラウマになりそうなほどショックだ。人はいつか必ず死ぬ。それが早いか遅いかだ。昨日まで普通に生活していたのに、ある日突然、命を奪われる。大谷や大誠のように。
まだ生まれて十八年にも満たない少年には、酷な問題だ。生きる希望も見つからないまま、死が現実として身近に起こる。生きる疑問に、死ぬ結末。ならば、悩む前に死んでいる方が早いのでは、そう考えてしまう。
せめて哲司に会えたら――その哲司でさえ、生きているかどうかはわからない。
(てっちゃんがもし死んでたら、俺も死ぬかな)
哲司を好きな気持ちのまま、命が消える。そのことが今の絢斗にとっては、見えない希望を求めて生きるよりも価値のあることのように思えた。
進路希望の用紙を、引き出しから取り出した。空欄に絢斗は乱れた文字で書きなぐった。“死にたい”と。
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