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第37話
三月に東京で、カルト教団によるテロ事件で多くの人が犠牲にあった。そのため、特に関東周辺では阪神淡路大震災の報道は徐々になくなり、他の地域でも話題にのぼらなくなった。そして六月、梅雨の時期。
絢斗の仮設住宅に江田から電話があった。オダマキ荘の解体作業後、絢斗は荒井、リカ、江田とともに食事に行った。そのときに連絡先を交換したのだ。
《受験とかで忙しくなるやろうけど、ごめんね。実は、新しい漫画を描いたんやけど…》
小学生向けの雑誌に投稿する漫画だが、面白いかどうかを絢斗に判断してほしいという。身近に小学生がいなくて、一番若い知り合いが絢斗だったのだ。
内心、漫画を読みたい気分ではなかったが、断る理由を説明するのも嫌で絢斗は承諾した。
学校が休みの日に、江田は仮設住宅に来た。大きな茶封筒に入れた原稿用紙を、絢斗に渡す。スクリーントーンが貼られ、ホワイトで修正された跡があり、フキダシの中は鉛筆でセリフが書かれてある。そんな生原稿を絢斗は初めて見た。
「正直に、悪いところは指摘してほしい。僕の人生かけた作品やから、100パーセント最高のものを出したいんや」
はじめは気乗りしない絢斗だったが、タイトルを見た途端、顔つきが変わった。次のページには、かつて見かけた姿があった。子供たちが、自転車を押しているおじいさんに群がっている。おじいさんは公園に自転車を止めた。紙芝居、『ミラクルマン』が始まる。
絢斗は原稿用紙から顔を上げた。
「これ…大谷のおっちゃんですよね」
「そうや」
笑顔でうなずく江田には、今までのようなオドオドした様子はない。逆に誇らしさを感じる。絢斗は原稿を読みすすめた。
西田公園の名は『さくら公園』と変えられているが、入り口近くの大きな桜の木、砂場、滑り台、紙芝居の上演舞台の広場、西田公園そのものだ。おじいさんの声が響く。絢斗の脳内では、大谷の声で再生されていた。
おじいさんと二人暮しの孫の少年は、おじいさんの紙芝居が大好きだった。だが、おじいさんは病気で倒れてしまう。少年は代わりに紙芝居をすることになった。ある日、家に泥棒が入った。刃物を持つ泥棒が怖くて震えていると、紙芝居の中からヒーロー『ミラクルマン』が現れた。もとが紙だから火と水に弱いミラクルマンは、泥棒に水をかけられながらも勇敢に戦い、少年と力を合わせて泥棒を捕まえた。警察から表彰されてお辞儀をしながら賞状を受け取ると、折り曲がった跡がもとに戻らない、という情けないオチだ。
「これ…オチがいいですよね。紙って特性をめっちゃ活かしてる」
「うん、僕が描くからね、強いヒーローなんか描かれへんから。そういう情けないやつの方が、どんどんネタが浮かんで」
照れながら眼鏡の位置をしきりになおす江田に、絢斗は読み終えた原稿を返した。
「めちゃめちゃ面白いですよ。アクションシーンとか絵がゴチャゴチャしてなくてわかりやすいし。ギャグ漫画にありがちな、説明臭さやくどいギャグもなくて読みやすくて。俺が小学生やったら、アニメ化してほしいなって思います」
「ええっ?! そんなに面白い…? 絢斗くん、知り合いやからってお世辞はナシやで」
「お世辞違いますよ。内容的に、親も自分の子供が読むのを反対することはないでしょうね。それでいて合間のギャグも面白いし」
一介の高校生に、気を利かせて取り繕ったお世辞など言えない。絢斗の言葉に嘘がないことは、江田にもよくわかった。
「ありがとう、絢斗くん。僕、自信持って編集部に出せる。この漫画は僕だけやなく、大谷のおっちゃんの人生も背負うことになるから」
大谷の紙芝居から、この漫画を思いついた。年が明けたら、江田が紙芝居を大谷に贈る。その約束が果たせず、江田はずっと悔やんでいた。
「おっちゃんの『ミラクルマン』は死なせへん。それが生きてる僕にできることなんや」
いつも弱々しいはずの江田の目には、強い決意が表れていた。生きている者にできること。震災が教えてくれたこと。
今日のお礼だと、和菓子の店で買った贈答用の煎餅を置いて、江田は帰っていった。
絢斗が失意の底にある間、江田は努力していた。
江田もかつては、大谷が死んだのは自分のせいだと、自暴自棄になっていた時期もあった。それでも立ち上がり、前に進み続ける。犠牲となった人の“魂”を死なせないために。
絢斗にできることは何だろう。哲司がいれば、相談に乗ってもらえただろうか。江田は漫画が描ける。それで何かを残せる。人のために何かができる。だが、独り立ちもしていない絢斗は、何も持たない。唯一の自慢であった脚力も、今は失ってしまった。
何もないからとりあえず進学する、就職するでは、道が見つけられない。何も見つからないまま日々を惰性で過ごし、無関心のままに生きていくだろう。人はいつか必ず死ぬ。それが早いか遅いかの違いだ。生きている間にできること、江田のように特殊なことができる人は、ほんの一握りだ。多くの人間は、ただの労働と納税という義務だけを果たして朽ちていく。
喜美子に相談しても、喜美子は絢斗にあれこれと指図しない。すべて、自分で決めさせる。決めた道をどう進んでいいのかわからないとき、アドバイスをくれる。だが道がない以上、喜美子にも相談しづらい。
将来図をえがけないまま、“死にたい”と書かれた進路希望の用紙はカバンに眠っている。
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