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第38話
期末テストの最終日。梅雨が明けず連日雨が続いている。三者面談の日が近づいてきた。絢斗は教室を出る前に、担任から呼ばれた。
「梅塚くん、進路希望の用紙がまだ出てないんやけど」
用紙なら持っている。ヤケで書きなぐった“死にたい”の文字入りで。だがそのまま出すほど、絢斗は見境がないというわけではない。
「あ…、まだ…決まってなくて」
担任は去年の絢斗も知っている。せっかく陸上部に復帰したものの、震災の怪我で思うように走れなくなりまた退部し、希望を見つけられずにいることまで。
だから、提出を急かして叱ることはしない。
「なんやったら、面談の日にお母さんといっしょに相談してもいいからね、用紙は白紙のまま当日に持って来てくれていいよ」
用紙をそのまま出してしまえば、担任と喜美子に無駄な心配をかけてしまう。帰ってから消しゴムで消してしまおう。そう考えた絢斗だったが。
仮設住宅に戻り、絢斗はカバンから進路希望の用紙を出すと、志望校の欄の“死にたい”の文字を消した。文字は消えたが、跡が残っている。乱暴に書きなぐったため、筆圧が強かったのだ。担任が見れば、志望校を一度書いたが何かの理由で消したのだろう、と読み取ろうとするかもしれない。嘘でもいいから、適当な大学名を書いて誤魔化すべきだろうか。
「ただいまぁ」
蒸し暑さに参りながら、喜美子がドアを開けた。両手には膨れあがったスーパーのレジ袋をさげている。今日は休みで、買い物に行っていたのだ。
「特売やったからね、行けるうちに買いにいっとかんと…よっこらしょ」
冷蔵庫に急いで買った物をしまう喜美子の背中を、絢斗はじっと見ていた。喜美子は大きな病院で看護師をしている。時間は不規則で、夜勤もある。休日は家事に追われる。決して楽ではない。絢斗はかつて、喜美子になぜ看護師になったのかと聞いたことがある。喜美子は小学一年生のとき、交通事故で怪我をして入院したことがあった。そのとき看護師が優しくしてくれて、折り紙を作ってくれたり、本を読んでくれたりした。そんな優しい看護師に憧れたから、と答えた。
現実は子供の患者に折り紙をしたり本を読んだり、という生易しい仕事ではない。災害があれば、不眠不休で看護にあたる。血も見るし、内臓や骨がむき出しの重傷者も見る。患者の吐瀉物や排泄物が体につくこともある。患者の死を目の当たりにすることもある。医療現場は過酷だ。それでも喜美子が看護師を続けていられるのは、患者をそばで支えたい、その患者が元気になるさまを見て、嬉しいからだと言う。
「絢斗、三者面談、明日やったな。お母さんその日、夜勤やから。学校から帰ってから、晩ごはん作って置いとくからね」
「あー…うん」
料理ができれば、喜美子の負担が軽くなるだろうか。飲食店で調理の仕事をすれば――一瞬そう考えたが、絢斗は料理に興味がない。続かないどころか、専門学校の時点であきらめたかもしれない。
適当な大学を出て、どこでもいいから就職して。そんな人生でも、哲司がいれば、『てっちゃん』のたこ焼きを食べるという楽しみがあれば、楽しかっただろう。何より、絢斗が高校を卒業して気持ちが変わらなければ、哲司は付き合ってくれると言っていた。まずは哲司を探したい。
「なあ、お母さん」
テーブルでくつろぎ、冷たい麦茶を流しこむ喜美子に、絢斗は尋ねた。
「何?」
「てっちゃん…どうしてるかなあ」
「加賀谷さん? さあねえ…大家さんも連絡つかん言うてはったし…。部屋の荷物は大家さんが預かってるらしいから、気になるんやったら大家さんに聞いてみる?」
そこまでする勇気がない。住人同士仲がいいことは大家も知っているのだが、なんとなく聞きづらい。それに、もし哲司が死んでいたとしたら、その事実を聞くのが怖い。
『てっちゃん』の店の跡は、すでに撤去されていて何も残っていない。ただ、むき出しの土があるだけだ。いまではそこに、雑草も生えている。
震災で何もかも変わってしまった。家がなくなり、オダマキ荘の住人もバラバラ、大学で陸上を頑張るという希望も、大好きな哲司も失ってしまった。
いまだに近畿地方で放送される震災からの復興を取り上げた番組では、人々は被災者を“頑張れ”と励ます。生きる望みを失った人間は、何を頑張ればいいのか。何でも持っている人間は、無責任に被災者の背中を押す。その先に、崖があろうとも。
「あの人、大きな組織の人やろ? ご実家が全壊しても家や当面の生活とか、面倒見てもらえるんちゃうかな。頑丈そうな人やし、きっと無事やって」
喜美子の言葉に根拠があるようなないような、そんな複雑な気分を抱えながら、絢斗も喜美子に麦茶を入れてもらって飲んだ。少し頭も冷えたような気がする。
「あーもう蒸し暑いなあ。晩はそうめんにしよ思たけど、茹でるん暑いなあ」
足を伸ばして大あくびをする喜美子は、家ではのんびりしているが、病院ではきびきび動いている。震災の後、ろくに休みも取らずに看護にあたった。手が足りず、助けられない患者がいたことを嘆いた。
「お母さん、家事が楽になるんと仕事が楽になるん、どっちがいい?」
「そうやねえ…」
喜美子は自分で自分の肩をほぐしながら答える。
「両方とも、かな」
あはははっ、と明るく笑い飛ばす姿を見ていると、絢斗は自分の悩みがちっぽけなことのように思えた。
その夜、“死にたい”の跡を隠すように、絢斗は進路希望用紙に志望校の名を書いた。
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