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第39話
夏休みに入った。ブルーシートで屋根を覆われた家がまだまだある。震災の焼け跡は、まっさらな土地になっても当時の悲惨な状況を物語っているようだ。
避難所にはまだ、仮設住宅に入れない人たちがいる。二次被害として避難所での感染症や持病の悪化、将来を悲観しての自殺があとを絶たない。
絢斗は朝から自転車をこいでいる。本当なら受験勉強で忙しいはずだが、絢斗が受験するのは大学ではない。基礎さえきちんとできていれば受かる学校だ。
真夏のジリジリ灼けつく日差しを背に浴び、約三十分ほどかけて仁川まで来た。哲司の実家を探すためだ。絢斗の高校よりもはるかに北、六甲トンネルに出入りする山陽新幹線を見ることのできる公園よりもさらに北。宝塚市と西宮市を南北に分ける川、それが仁川だ。
阪急電車の線路を挟んで東には阪神競馬場、西には緑ゆたかな甲山(かぶとやま)がある。絢斗は幼稚園のころ、阪神競馬場には遠足で来たことがある。競馬場の敷地内に子供向けの公園があり、平日は無料で入れる。甲山にはピクニックセンターがあり、やはり小学校の遠足で絢斗は来たことがある。ピクニックというわりに子供にはきつい山道だったことを覚えている。
一口に仁川といっても範囲は広い。川の南北の町名には、みな“仁川”という名が入っている。哲司の実家が宝塚側なのか西宮側なのかも知らない。約一時間をかけて周辺をうろうろしているが、加賀谷という家は見つからない。絢斗は駅の近くにある交番の前で、自転車を停めた。
中にいた巡査に、加賀谷という家はないか尋ねてみた。一瞬、怪訝そうな表情を見せた巡査は、絢斗に名前や目的を聞いた。
「あ…あの…、住んでいたアパートが震災で潰れたんです…。その同じアパートに住んでた人で…、171号線沿いでたこ焼き屋をしてた人がいて…その…、仲がよくて兄みたいな人だったんですけど」
“好きな人”という言葉を飲みこみ、絢斗は説明を続けた。
「その人が仁川の実家に帰ったときに、震災にあったんです。で、連絡が無いんで…どうしてるかなと」
話を聞いた巡査は“そういうことなら”と、途端に態度が変わった。大きな地図を机に広げ、加賀谷という家を探す。仁川町、仁川五ヶ山町、仁川百合野町――
「仁川、言うてたけど西宮市なん? 宝塚側やったら、もっと世帯数は多いよ」
「すみません…仁川としか…」
話し声に気づいて、もう一人の巡査が奥から出てきた。三人で大きな地図の小さな文字を探し、やっと加賀谷の家を探し当てた。そう多い姓ではない、間違いなく哲司の家だろうと、絢斗は喜んだ。だが――
「ああ、そこの家…」
奥から出てきた方の巡査が、言いにくそうに口ごもる。しかし、黙っていても事実を変えられるものではない。目の前の少年ががっかりすることを想像し、彼は表情を曇らせた。
「震災のとき、火事があった区画やね」
「えっ…火事…?」
その巡査は震災当日、火災現場近くの交通整理をした。二軒が全焼し、三軒が半焼となった。辺り一面が焼け野原になった神戸市長田区や芦屋よりも、規模の小さな火災だったそうだ。
話を聞いた絢斗はうなだれた。顔も上げず“ありがとうございました”と小さな声で礼を言うと、自転車を押して交番をあとにした。
絢斗は交番で教えてもらった、火災現場の跡地まで来てみた。静かな住宅街。川は見えない。マンションや一軒家が並び、時折自動車が通り、電車の音が聞こえる。やがて、土がむき出しの角地が見えた。地図上では、その区画の一つに小さく「加賀谷」と書かれていた。あの一月十七日、哲司はこの家にいたのだ。火災がなければ、絢斗たちの避難所にかけつけただろう。そう思うと、絢斗の目に涙があふれた。違う、まだてっちゃんは死んだと決まってない、そう言い聞かせても涙はおさまらない。
通りすがりの主婦とおぼしき中年女性が、絢斗をじろじろと見る。見慣れない少年が、空き地で泣いている。変に思われても当然だ。絢斗は涙をぬぐい、勇気を出して女性に声をかけてみた。
「あの…、ここに加賀谷さんという家があったんですけど…。どうされたかご存知ないですか?」
あからさまに驚きの表情を浮かべた中年女性だが、加賀谷家を知っているようで警戒心を解いて絢斗に近づいた。
「加賀谷さん? そこの角に住んではった奥さんやね。お知り合い?」
「ええ、加賀谷さんの息子さんが…近所に住んでてお世話になって」
「ああ、息子さんの…」
一瞬、女性は眉をひそめた。哲司は昔からワルだった。ヤクザになったことも知られているのだろう。
「加賀谷さんね、震災のときに火事にあわれて…助からんかったみたいよ」
「全員ですか?!」
「さあねえ…。あのときゴタゴタしてて、ほかに亡くなった人も近所にいたし…」
大地震の後のことで混乱し、安否はわからない。だが、哲司の母親が亡くなったのは確かだ。
「そのとき息子さんと、赤ちゃん連れた妹さんがいてたらしいんですけど」
女性は首をかしげる。
「さあ…来てやったんかどうかは知らんねん…、ごめんね、ようわからんで」
「いえ、すみませんでした。教えてくださって、ありがとうございます」
絢斗は頭を下げると、自転車を走らせた。哲司の家が火事。そして、母親が亡くなった。あの地震は一瞬で、いろいろなものを奪っていった。
汗だくで自転車をこぐスピードを速めた。そうでもしなければ、流れている涙を通りすがりの人に見られてしまう。汗と涙の混じる顔で、なるべく人通りのない道を走る。幸いこの炎天下だ。人通りは普段より少ない。必死に唇を噛み、漏れる嗚咽と戦いながら、仮設住宅までの道を急いだ。
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