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第41話

 三月一日。絢斗が高校を卒業する日。哲司との約束では絢斗の気持ちが変わらなければ、この日から付き合えるはずだった。門を出れば哲司が迎えに来てくれて、祝いだと言って大盛りのたこ焼きを持って来てくれただろうか。もしかしたら店を臨時休業にして、ラーメン屋にでも連れて行ってくれたかもしれない。その後は哲司の部屋に行って――その後は想像するのが照れくさいのが半分、むなしいのが半分だった。いくら胸に描いてみても、現実にはほど遠い。哲司が今どこでどうしているかわからない。寂しい気持ちで門を出た。だがいつまでも引きずっていられない。これから、高校生ではない絢斗の生活が始まる。  突然、真後ろでクラクションの音が聞こえた。車道の邪魔にならないよう自転車を走らせていたはずだ。それでもクラクションはもう一度鳴る。しつこいなあと絢斗は無視をしていた。 「おい、無視すんなや」  因縁をつけられる覚えはない。ひどい言いがかりに、絢斗はペダルを止めて振り向いた。見たことのない大きめの白いバンが停まっていた。ドアウィンドウから運転手が顔を出している。 「よお、久しぶり」  横に広げられた大きな口から銀歯がのぞき、深い笑い皺。よく知った懐かしい笑顔だ。 「てっちゃん…」 「無事、卒業できたんやな。おめでとう」  しばらく沈黙が続く。何も答えない絢斗に、哲司が“どないしたんや”と聞く。 「い…い…」  ガシャン、と派手な音で自転車がアスファルトに横転した。スタンドで立てようとしたが、慌てていたので倒れてしまった。 「今までどうしてたん?! どこにおったん?! 実家どうなったん?! 怪我とかないん?!」  ドアを引っぺがさんばかりの勢いでしがみついて、絢斗はまくしたてる。 「な、なんやねんいきなり。まあ、つもる話もあるから乗れや。…って言いたいけど、この車チャリ乗せんの無理やしなあ。いっぺん家に帰っといで。そっからうち来るか? つーか、チャリ大丈夫か?」  言われて絢斗は急いで自転車を立てなおす。今日は休みを取って式に来てくれた喜美子が先に帰り、家では昼食を用意してくれているだろう。 「う、うん、一回帰って着替えて昼食べてからな」  サドルにまたがった絢斗に、哲司は尋ねた。 「どこに住んでるん?」 「末広町の仮設」 「オダマキ荘のあったとこから近いやんけ。ほんなら商売がてら近くに行って待っといたるわ」 「商売?」  絢斗はそのとき気づいた。白いバンの車体には、おそらく哲司が自分で書いたであろう下手な字で『たこやき てっちゃん』という黒い文字があった。 「店、震災でいかれてもうたやろ。今はコイツであちこち回って商売しとんや」  言いながら哲司はウィンドウから腕を伸ばしてドアのあたりを平手で叩く。後部には鉄板があり、バッテリーや冷蔵庫、大きな水のタンクも積んでいる。内部は広いが調理場になっているため、自転車が積めないのだ。 「じゃあ、たこ焼き焼いて! お母さんの分と二人前。お金は今持ってないから、後で持ってくる」 「よっしゃ」  バンを路肩に停め、哲司はバックドアを開け固定した。哲司が後部ドアから入り、アウトドア用の折りたたみ椅子に座ると鉄板に向かった。171号線沿いにあった『てっちゃん』の対面式の鉄板を思い出す。車の窓からわずかに熱風が流れてきたとき、ジュウッと音がした。鉄板に粉を流している。すぐにあの懐かしい匂いがしてきた。かつおの粉とエビと醤油をこんがり焼いたような、香ばしい匂い。 「…俺んちな、火事で焼けてもうてん」  それは知っていた。仁川まで行って交番で探してもらったのだ。だが、どんな家かは知らない。何も残っていなかった。 「でな、オカンが助からんかってん…。妹と姪っ子は俺が助けたけど、俺も全身やけどと骨折の重体でな、オカン助けようとしたけど火ぃ回り過ぎて周囲の人にも止められてな…」  義理の弟は仕事があったので大阪の吹田市にいた。そっちの家は無事だった。だが、哲司の実家は火事に遭い、消防車が間に合わず母親は亡くなった。遺体は黒焦げだったが、煙を吸引して亡くなったのか焼死なのか、それさえもわからないほどだったという。   「オカンの葬式にも出られんでな、亡くなったって知ったんは意識が戻ってからやねん。病院で包帯だらけのミイラみたいなカッコで、妹の前で初めてわんわん泣いたわ。けどな、もしオカンを先に助けて妹と姪っ子が助からんかったら、オカンがどれだけ落胆したやろか…って考えたらな…それだけでも救いやろか」  かつてたこ焼きを焼きながら、哲司は亡くなった父親のことを話した。そのときの表情と同じだ。青春時代にワルだった哲司は、苦労をかけた母親に何一つ返せなかった。火の中から助けてあげることもできず、最後の最後まで親不孝だった。 「俺はその後何か月も入院してな。退院してから神戸のおやっさんとこに行ったんや。前に話した、俺のたこ焼き気に入ってくれたおやっさんやねん。西宮の状況話したら、えらい驚いてたわ。てっきり神戸ばっかりが被害大きい思てたらしいからな」  世間では神戸ばかりが報道され、芦屋や西宮に住んでいると話せば「被害が少なくてよかったね」と事実を知らない人に言われる。義援金は神戸にばかり届く。それもそのはず、関西人以外は神戸市以外の兵庫県を知らない。震源地が淡路島であるのもあまり認識されず、“神戸の地震”とさえ言われてしまう。神戸以外の被災者は肩身が狭い。 「おやっさんがな、神戸でマンションも用意したるから店出せ言うねんけど、俺はどうしても西宮がええ言うたら、おやっさんが“ほなら車で屋台みたいに移動したらええ。その代わり、週一回程度でええからたこ焼き届けに来い”言うてくれてな」 「なんで? なんで西宮がええの? 神戸の方が遊べるとこいっぱいあって面白そうやん」  器用にたこ焼きをひっくり返しながら、哲司は口ごもる。 「それはー、あの、ほら、アレや。えべっさんあるしな」 「神戸にも柳原とかの神社あるやん」 「西宮のえべっさんがええねん。そら、できた」  焼き上がったたこ焼きを舟皿に並べ、油紙で覆って輪ゴムで止めて急いで絢斗に突き出す。 「もしかして…俺との約束守るため…」  哲司は腕を組んでじっと黙る。顔は真っ赤だ。

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