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旭と陽

 本館の廊下を歩いていたとき、ふと窓の外に目をやると、中庭に日傘をさして立つ男性職員と中腰になって熱心に植木鉢の植物を見つめる児童の姿が視界に入った。太陽はまだまだ空のてっぺんに近い。こんな暑い中外にいるのは不思議だった。  俺はがらりと窓を開け、声をかけた。 「何してるんだ?」  パッと男性職員が顔を上げる。見ると、これまた後輩の絹原旭(きぬはら あさひ)だ。目が合った瞬間、彼はへにゃりと破顔した。 「冴島さん! お疲れ様です!」 「お疲れ様。この時間に外にいるのは暑いんじゃないか?」  俺は窓枠に腕を乗っけてそう聞いた。日傘の下にいる旭の額には、じんわりと汗がにじんでいるのがわかる。外はかなり暑いのだろう。旭は少し視線を下げて児童を見た後、また視線を戻した。くりくりの天然パーマの髪を揺らして、また無害そうな笑みを見せる。 「(よう)君、トマトがどのくらい成長したか気になるって聞かなくて」  陽君、そう言われた瞬間、先ほどまでこちらには一切意識を向けなかった少年が、ばっと勢いよく顔を上げた。利発さをうかがわせるツンツンと外側に跳ねた黒髪の少年は、まず旭を見てから、次に俺を見る。きょとんとした顔から察するに、本当に、旭以外に人がいることに気が付いていなかったみたいだ。しかし、自分の名前を聞いてちゃんと反応した。これは物凄い成長だ。  この子は確か、もう17歳だったか。  彼はここに長らく入所している子で、俺がここに就職するよりも前から入所している。初めて彼を知ったのは、彼が名前をもらって一年経過したばかりの頃だったが、その時はまだ名前を呼ばれても反応できなかった。それは、名前と自分の存在が結びついていなかったからだ。自分が何者であるとも知らない子供達がここにはたくさんいて、ここで成長する中で「自分」には大切な「名前」があることを知っていく。そして少しずつ、本当に少しずつ成長していくのだ。  陽は、じっと俺を見つめた後、びしぃっと人差し指で俺を指さした。それに慌てたのはもちろん旭だ。 「こらっ、人のこと指さしちゃだめだよ」 「先生! トマト! トマト!」 陽は旭の注意は聞き入れず、そのまま植木鉢に生えた植物とトマトの実を指さした。俺とトマトを交互に指さすのを見て、「これを見て」と言いたいのがわかる。あわあわする旭に「大丈夫」と笑って、俺は陽に話しかけた。 「それは陽が育てたのか?」 「うん……」 陽はまたじっとトマトの実を観察しだした。しかし、自分の世界に入りきっているわけではない。 「大きくて、綺麗だな。何色?」 「赤いの。きれいな、色」 「美味しいと思う?」 「……」 少し難しいかと思ったが、あえてそう質問してみた。思った通り、陽は困ったように旭のほうを向く。俺はそれを見て、陽はちゃんと「安心できる人」を見つけたのだとほっとした。そして旭も、陽にとっての「信頼できる大人」になれたのだと。  旭は陽と目線を合わせるようにしゃがんだ。そして、優しく声をかける。 「このトマトは美味しいかな? どうだろう。陽の気持ちを、冴島先生に教えてあげて」  陽は少しだけ困惑したように落ち着きが無くなったあと、ちらっと俺の方を向いた。 「おいしい……。あとで、取ったら、先生にもあげるね」 陽はそう言ってから、ふっと口角を上げて笑った。そして、恥ずかしい、と訴えるようにすぐに旭の胸に飛びついて、ぐりぐりと頭をおしつける。旭もまたくすぐったそうに笑っていたが、そこには陽の成長への喜びも感じられた。  17歳の男の子にしては小さい体、拙い言葉。しかし彼はここでちゃんと生きていて、嬉しさや幸せを感じることも出来ている。それは、陽の努力と、旭やその前の陽の担当職員や、多くの人が彼に向き合ったからでもある。そのことが、何よりも胸を暖かくさせた。 「ありがとう。楽しみにしてるよ」  陽と旭が、にっこりと笑ってこちらを見る。ぶんぶんと頷く陽が可愛らしくて、俺はまた笑ってしまった。

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