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テディベア

 一晩部屋で考えたものの、結局いい案は浮かばなかった。不甲斐ない自分に情けなさを覚えつつ、今日もまた昨日と同じように出勤する。  朝ごはんを少年の元に運び、朝礼を行って、各自勤務に入る。ひなどり棟の子供に決まった過ごし方というものは無く、児童の精神状態とそれを観察する担当職員の裁量で一日が決まるため、一班のメンバーでも、職員室に残って作業する者とひなどり棟へ向かう者とに分かれていた。  俺はひなどり棟へ向かった。今日はやろうと思っていたことがあったのだ。  ひなどり棟に入って左手に曲がる。すると、すぐに二階へ続く階段が見える。角の丸くなった、段差の小さな階段を上ると、二階には作業療法室やプレイルーム、図書室や処置室などの部屋が並んでいる。俺はプレイルームに入った。  プレイルームの床はカラフルなジョイントマットが敷き詰められており、上履きを履いたまま上がることは出来ない。  弾力のあるマットに足をつけると、ふと、この間まで担当していた子供のことを思い出した。  先月までつばめ棟にいた子、勇気君。  プレイルームが好きな彼は、朝会うとすぐに俺の手を引いてプレイルームに行こうとせがんだ。一番好きだったのは動物のパズルで、同じもので何度も繰り返し遊んでいたっけ。たまに外で遊ばなくてはいけない日は、ぐずって泣いて大変だった。それでも、一度外に出てしまえば不機嫌だったことなんてすっかり忘れて大はしゃぎする。そして疲れて眠って、部屋までおぶって帰った。目が覚めるとまたプレイルームに行きたいと騒いで、俺が「少しだけ」と言って連れていくと、満面の笑みを浮かべて言うのだ。「ありがとう」と。  たった一か月前のことなのに、まるで昨日のことのように思い出す。俺はひなどり棟の静かなプレイルームに、もう一度意識を戻した。ひなどり棟のプレイルームは、つばめ棟とは違って静かだ。大勢が集まって遊ぶこともない。基本的には職員と児童一対一で、ゆっくり遊ぶところなのだ。だから部屋もそんなに広くないし、おもちゃもあまり多くない。おもちゃの種類も、ぬいぐるみなどの柔らかいものばかりである。  俺はぬいぐるみが並べられた棚に近づいて、それらのぬいぐるみを眺めた。クマや、ウサギ、ネズミ、ライオン。様々な動物のぬいぐるみから、女の子や男の子の可愛いぬいぐるみもある。  少年のことを思い出して、選んだのは茶色のテディベアだった。首に赤いリボンを着けたテディベアはふわふわとしていて、口角もにっこり上がっている。これにしよう。  廊下に出て、正面に見える窓の外に世界に俺の瞳は動きを止めた。真っ青な空に浮かぶわたあめのような雲が、今日という日に宿る熱を伝える。施設に植えられた木々の先に見える「街」の、もっと向こうに、勇気君は今生きている。彼の「家族」と共に。  メルヘンが、心から笑って、幸せに生きられる社会になれば。  彼らを助けることができれば。  そう願ってこの仕事に就いた。そうして確かに俺は、メルヘンの幸せの手助けをし、彼らを保護する仕事に携わることができている。しかし、メルヘンと関われば関わるほど、メルヘンへの罪悪感や、この社会に対する苦悩が生まれることも知った。どうしたって、保護の手からすり抜けるメルヘンがいる。俺達が保護できる子供達はごくごく一部で、一般の家庭で奴隷とされているメルヘンを助けることは出来ない。彼らは何もしていないのに、リアルの都合で好きに扱われる。  勇気君の笑顔を思い出す。他の子供達の笑顔を、優しさを思い出す。多くのリアルが大人になるまでに忘れてしまう純粋さと素直さ、そして優しさを心に宿した多くのメルヘンが、あの少年のように、理不尽に虐げられ、心を傷つけられる。  助けたい。守りたい。少年の心に刻まれた深い傷を、癒したい。  俺は手に握ったテディベアを眺めた。 「君は、あの子を笑顔にしてくれる……?」

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