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幸月 2
「嫌なことがあったかな……?」
「うー……うああああ!!!」
だが、またここで少年は大きく体を動かした。腕を振り払うように体を左右に勢いよく動かす。そのとき、少年の足元に目がいった。少年の足はぴんっと突っ張り、今にも駆け出さんばかりにつま先を床に押し付けていた。その状態でプルプル震える足を見て、俺は少年を座らせるように力をかけた。
「まず座ろう。その体勢じゃ辛いだろ?」
「ああ!!」
「嫌だよな。座りたくないな……。でも、座ったら、楽になるよ。嫌なことも、ちょっと落ち着くかもしれない」
「うー、うー」
「うん、良い子……」
だんだんと力が弱まってきた少年をぎゅっと抱きしめていると、触れ合う胸の奥から酷く激しい鼓動が聞こえてきた。まるで胸を破って出てきてしまうのではないかというほどのその振動に合わせて、少年は微かに体を揺らした。
「苦しいな、怖いな」
頭を撫でてやりたいのを我慢しながら、俺はそのまま少年の足から力が抜けるのを待った。ずっと動かしていなかった体に突然長時間力を入れたら、ぐったりと体は支えを無くすはず。少年にとっては恐ろしいことだろうが、これもまた人が自分の体を守るためのものだ。
それから少しして、少年は足のつっぱりを緩めてもたれかかれるように力を抜いていった。俺は片手で少年を支え、もう片方の手で少年の膝をマットにつかせて、そのまま座らせた。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
「良い子」
大人しくしている少年にそう声をかける。片手でも抑えられるほど抵抗力の無くなった少年は、先ほどまでの荒々しさから一転、嵐の後の凪いだ海のような静けさをまとっていた。しかし、その瞳から零れる涙はなおも止まらない。
そんな少年を抱きしめながら、俺はふと顔を上げた。顔上げた先にあるのは、この部屋唯一の窓だ。そこから差し込む月の光が、俺の頭をあげさせた。月の青白い光が一直線に俺と少年に降りかかり、反射したそれはこの部屋も淡く青色に染めている。
闇に佇むその白く丸い月は、俺の瞳を捉えて離さなかった。瞬きさえも忘れてその月に見入った後、気が付くと俺の目からも涙が溢れていた。そして、しゃくりあげそうになるのを堪えて、俺は胸に収まっている少年に語り掛けた。
「君の名前は、“さつき”だよ。幸せな月と書いて、幸月」
「う……」
幸月がくぐもった声を出した。俺はクスリと笑って、また続けた。月を見上げながら。
「お月様はね、昼間はいつも隠れているけど、夜になるとこうして出てきて、皆を照らしてくれるんだ。太陽みたいな力強さは無いけど、静かで、穏やかで、眠っている皆に優しく寄り添ってくれる」
その時無意識に、幸月の頭に手が伸びた。幸月が許してくれるまで触らないと決めていたのに、その時どうしてか手が伸びて、彼の頭をゆっくりと撫でていた。手のひらを、細く繊細な髪が滑る。あぁ、なんて綺麗な子だろう。なんて、愛しい子だろう。
「幸月、君もきっと、そんな子になる。お月様みたいに静かで、そして優しくて、皆に愛される子。そして君自身も、誰かを愛せる人に」
ふと顔を下げると、幸月は腕の中ですやすやと眠りについていた。まさか他人に抱きしめられて眠ることは無いだろうと思っていたため驚いたが、その無防備な寝顔を見ているとふっと笑ってしまった。涙も、もう止まっている。
今日は何か気持ちが落ち着かなくなるようなことがあったらしいが、ああして表現してくれた方がこちらも安心する。幸月はまだ子供なのだ。おそらく見た目よりは年齢を重ねているだろうが、彼はメルヘンで、そして普通の環境で育った子ではない。だから、今日のように怒りや怯えを体で表現するのが当たり前である。それが彼の自然の姿なのだ。
幸月が、この施設を巣立つその日まで。
「俺が君を、守るから」
俺は幸月の体を静かにゆっくりと横たえて、傍にあった掛け布団をかけてやり、幸月に寄り添って眠るようにテディベアを隣に寝かせて、部屋を後にした。
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