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新しい日常 4

 向かったのは隣の隣にある学習室だ。ここと、もう一つ隣の二階のつき当たりの部屋は小学校と中学校に通う者、そして高校生レベルの子供達が勉強するために開かれている。つき当たりの部屋では小学生と中学生の子を交えた勉強会が開かれており、職員二人ほどに対して子供が5人程度集まっていた。もう一つの部屋のほうでは、高校生レベルの子が一人黙々と勉強に励んでいる。俺は、その静かな教室に足を踏み入れた。  がらがら、と戸が開く音がすると、中にいた少女は俯けていた頭をぱっと上げてこちらを見た。そして俺を認めると、「先生っ」と言ってふわりと笑った。 「ちゃんと勉強してて偉いな」 そう言いながら歩を進め、彼女の向かいに座る。その少女、さくらは長い黒髪をふわりと胸元で揺らした。 「だって、お勉強楽しいもん」  そう言った彼女の前に開かれているノートには、中学三年生レベルの数学の問題が綺麗な文字ですらすらと書かれていた。どの問題にも赤丸がついている。桜は施設でもとりわけ勉強好きな子だった。 「あーあ、私も高校に行きたかったな。そしたらもっとたくさん勉強できたのに」  桜は机に頬杖をついて、ぷくーっと不満気に頬を膨らませた。その顔は窓の外に広がる青い空に向けられている。きっと、その先にある手の届かない場所を彼女は見つめているのだろう、と思った。  メルヘンは、高校に行けない。  小学校と中学校までであれば相応の知能があれば入ることができるが、高校だけはどうしても拒否されてしまう。学力試験さえ受けさせてもらえないのだ。  理由は、他の生徒の指導だけでも手一杯なのにメルヘンまで面倒は見切れないから、問題が起きては困るから。  確かに、メルヘンの学習能力はリアルよりは低い。同じことを覚えるのに時間がかかることが多々ある。だが、例えば桜のようにそれでもリアルと遜色ないほどの学力を持つ子はいるし、性格も穏やかで何一つ難の無い子もある。問題など起こしそうもない。  それが、ただひとつ「メルヘンだから」と全てを切り捨てられてしまうことが、何より歯がゆかった。  だから、これらの子には施設内で高等学校レベルの指導を行うのだ。限界はあるが、それでこの子達のストレスも抑えられる。 「桜の学力なら、高認も夢じゃないよ」 そう言うと、桜はちらっとこちらを見た。 「高卒認定試験?」 「うん。高卒って学歴になるわけじゃないけど、それでいろんな専門学校に行けるし、大学も、もしかしたら……」 「大学!?」  桜は机から身を乗り出した。俺を捉えた瞳が、キラキラと光っている。俺はコクコクと頷いた。 「そっかぁ、大学かぁ。いいなぁ。ねぇ、どんな大学があるか調べたいから、今度パソコン借りてもいい?」 「いいよ」 「ありがとう。ふふっ、なんか楽しみになってきた。先生、私にそんなこと言うってことは、先生は授業に戻って来てくれるんだよね? 数学、教えてくれるんでしょ? 今の先生の数学、ちょっとわかりにくいんだ」  最後の部分はこそっと耳打ちするようにして、桜は言った。俺が授業に戻ることが、桜の中では確定しているらしい。だが、きっとそうなるだろう。もうひなどり棟の職員ではないし、以前のように、ここで授業を担当するのだ。  俺も微笑んで、うんと頷いた。桜は立ち上がって両手を挙げた。思わず出てしまったというような万歳のポーズが微笑ましい。桜のオーバーリアクションが落ち着くまで待ってから、俺達は高校数学の学習を始めた。

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