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新しい日常 7

「せんっ、せぇ……。いたい、いたい」  陽は何度も「せんせい」と「いたい」を繰り返した。悲痛な声が、静かな廊下にはよく響く。このままだと他の部屋の子供にも影響を与えてしまう可能性もある。  俺は一階の空き教室に入り、そこからベランダへの戸を開けた。外の空気と共に、草木の匂いと夜の虫の声が教室に吹き込む。その場に腰を下ろし、膝に陽を座らせると、陽は俺の胸のあたりに顔を押し付けたまましくしくと泣いた。 「いたい、いたい……」  よく見ると、彼は右手で自分の左腕をがりがりとかきむしっていた。かきむしられた腕からは血がにじみ、真っ赤に貼れていた。自傷行為だ。 「陽、それは痛い痛いってなっちゃうよ」  やんわりと右手をどかそうとすると、陽は俺の手を振り払うように乱暴に右手を動かした。左腕から右手が離れたその瞬間に右手を掴み、膝に置かせて、そのまま撫でる。陽はそこからも逃れようと力を入れたが、抜け出せるような力を持っていない。 「いた、いたい……。あさひ、せんせぇ……。あさひせんせぇ」  陽が口にしたのは、陽の担当職員である旭の名前だった。旭は今日宿直当番ではない。だから、陽がいくら彼を望んでもここに連れてくることは出来なかった。 「旭先生じゃなくてごめんな。明日はちゃんと会えるからな」 「あさひ、せんせぇ……。いたい、の。ぎゅって……だっこ、し、て」 「陽、俺がいるよ。冴島先生だよ」 「あさひせんせ、だっこ、だっこぉ……うううう」  これは明日旭が出勤するまで収まりそうにない。陽の右手を抑えたまま、俺は陽の背中を規則的にぽんぽんと叩いた。このまま寝てくれれば一番いいのだが、どうだろう。  陽は1,2時間ほどにわたって「あさひせんせい」と繰り返し、彼に助けを求めた。しかし、最後はとうとう力尽きたのか、俺の胸に頭を預けてすやすやと眠ってしまった。このままのばらに戻り寝かせても、またいつパニックが起こるともわからない。俺は陽を抱いたまま宿直室に連れて行き、予備の布団を出してそこに寝かせた。不測の事態に備えるため眠ることはせず、その日は一日陽を見守ることとなった。

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