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新しい日常 14
それから1時間ほど経っただろうか。雪君は絵本に夢中で、読み進めるほどに積極的になっていった。
「これはなに?」
「王子様とお姫様は幸せになったの?」
「お花はお外にあるの?」
「ぼくも、お花見たい」
たくさんのことを問いかけて、どんな答えが返ってくるかキラキラした目で俺を見つめる。たった1時間でここまで慣れられることに驚きつつ、雪君が話しかけてくれるときは俺もわくわくした。次はどんなことを聞いてくるだろう、答えたらどんな顔をするだろう。雪君はこれから、どんな表情を覚えていくのだろう、と。
もう何冊目かわからない絵本を読んでいたとき、読み進める俺の腕を、雪君はまるで読むのをやめてと言うかのように掴んだ。雪君のほうを見ると、彼は下唇を軽く噛んでもじもじとしている。
「せんせ……」
「どうした?」
そう聞いた瞬間だった。雪君は「んっ」と声を漏らしてぎゅっと目を瞑った。そうして最初に気が付いたのは、つんとしたアンモニア臭。そして、しょろしょろという尿の漏れる音だった。
我慢させていたのか、とその時気がついた。もしかしたら、雪君自身も興奮して尿意に気が付いていなかったのかもしれないが、そこは俺が気付いてやるべきだった。雪君の成長ぶりを喜んで、そういう当たり前のことを失念していた。
「うっ、ふ……ぅう」
「雪君、大丈夫。さっぱりして、新しいズボン履こう」
排泄が終わったところでそう声をかけ、雪君の手を取る。しかし、彼は立ち上がらなかった。否、立ち上がれなかった。
「ごめ、なさい。ごめんなさ……ごめんなさぃ……ごめ」
雪君は顔面蒼白で、全身を震わせながら誰もいない虚空を見つめていた。何度も謝る彼の姿からは、先ほどの天真爛漫な姿を想像できない。パニックに陥っている。
「大丈夫。だいじょうぶ。誰も怒らないよ。俺こそ気づかなくてごめんね。だいじょうぶ」
「ごめ、んなさい」
「怒ってないよ、だいじょうぶ」
雪君の頭を撫で、背を撫で、腕を撫でる。大丈夫と何度も繰り返し、雪君が落ち着くのを待つ。悠生が帰ってきてくれれば一番いいが、立て込んでいるのだろう、なかなか帰ってこない。雪君がここまでパニックになるのは、きっと悠生以外の人間に「失敗」を見られたからなのだろう。きっとあそこまで人慣れさせた悠生の前では既にここまでのパニックは起こさないはずだ。
雪君をひとしきり宥めたところで、彼を立たせて廊下に出た。まだ涙は止まらないが、ズボンが濡れているままではずっとその事実を意識して落ち着かないだろう。
「ほら、もうすぐお風呂場だよ。シャワーで流したらさっぱりするぞ」
「うっ、うっうう……」
「綺麗にしたら、また絵本読もう」
雪君を浴室に連れて行き、ズボンを脱がせてバスチェアに座らせる。足には無数の痣や瘡蓋があった。彼はストレス商法の発散相手で、性処理相手にはされていなかったのかもしれない。泣いてはいるが、浴室にいることやズボンを脱いでいることには恐怖を感じていないからだ。そこは、幸月と違う。
シャワーを足元からかけても怯えなかった。怯えるどころか、温かい湯に安心して少しずつ涙が収まってきたくらいだ。容器をプッシュしてボディソープを出し、泡を立てて優しく洗っていく。
「悠生にも、シャワーで洗ってもらったことあるか?」
問いかけると、雪君は頷いた。そして小さな口からようやく言葉を発してくれた。
「ほか、ほか。あわあわに、なるの」
「泡をいっぱいつけてくれるんだ。悠生らしい」
「ふーって、あわ……」
雪君はそう言うと、両手お皿のようにして口の前に持ってきて優しく息を吹いた。そこに泡は無い。シャボン玉を作れるくらい泡立てていないので今回は仕方がないが、雪君はシャボン玉の作り方を見せてくれたみたいだった。息を吹いた後、「どう?」とでもいうように俺を見る。
「凄いなぁ、もう作り方を知ってるんだな。じゃあ今度見せてね」
「う、ん」
雪君の涙は、もう止まっていた。
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