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15歳の少年 3
秀人がやってきたその日は、念の為施設に泊まることになった。桐也達施設職員と違って常勤医師は普通に帰宅できることが多かったが、これからはそうも言っていられないかもしれない。
特に何もなければいいな、なんて思いながら、その日は眠りについた。
翌日出勤すると、夜勤看護師から秀人が40度の熱を出していると報告された。昨夜別れた後から上がり始めたらしい。幸い酷いのは熱のみで、呼吸器等への影響は見られていないようだ。
朝の診察に部屋を訪れると、真っ赤な顔でベッドに横たわる秀人がいた。確かに呼吸は荒くなっていないが、苦しそうなことに変わりはない。聴診器を当てるため服を脱がせた際も目覚めることはなかった。
「このまま昼まで目が覚めないようなら、点滴入れて。その時は、トイレも行かせてあげてね」
そう看護師に指示を出してから、医務室へ向かった。
デスクに座り、業務に入る。施設の児童全員分の報告書を読むことに始まり、職員からの相談依頼のチェック、報告書から気になった点の洗い出し、職員から呼び出しがあればそれに応じるなど、仕事は多岐にわたる。
加えて今日は、秀人の調査書も読まなくてはならない。事前情報では秀人の詳細な身体状況はわからなかった。
「軽度の先天性心疾患、手術済み……」
一番初めにそう記載されていた。
その後、肺機能が弱いこと、喘息持ちであること、免疫系統にも若干の障害があること、PTSDの可能性があること等、実に様々な情報が秀人の過去の記録と共に記されていた。
資料を読み終え、ノートパソコンを一度閉じる。背もたれに体重をかけてうーんと伸びをしながら、天井に目をやった。
秀人は特別な配慮を必要とする子だ。
あの子は外を走り回れないし、汚い部屋や砂埃の舞う中、人の雑踏と排気ガスにまみれたような街にいたらすぐにでも呼吸困難を起こしてしまう。風邪にかかりやすいのも事実だろう。
しかし、簡単なサポートでそのような生きづらさはすぐに解消される。
調査書を読む限りその程度だ。
決して「莫大な医療費」がかかるものでない。ましてや「病院で面倒が見れない」ような子でもない。
結局あの子がここに辿り着くまでに並べられた言葉は、あの子を捨てるためにテキトーに選ばれたのだ。
言葉はなんだってよかったのだ。
支援の方法はいくらでもあるこの時代に、よくあんなお
粗末な言葉であの子をここに追いやったものだ。腹が立つ。
ムカムカした俺は、気分を晴らそうと秀人の顔を見に行くことにした。医務室と病室は直接繋がっているため、すぐに向かうことができる。
秀人はまだ眠っていた。
俺はベッド横の丸椅子に腰掛けて、秀人の寝顔を見守った。
傷一つ無い、端正に整った顔。ピアニストとして人前に出るため、日常的に暴力を受けるなどということは無かったのだろう。その生活が彼にとって幸福であったかは別だろうが。
熱は少し下がっただろうか。
朝見た時より、顔が赤くない。しかしまだ表情は苦しげだ。
早く元気になってほしい。この子のことをもっと知りたい。
そう思うと、自然と彼の額に手が伸びた。撫でてやりたかったのだ。しかし、それは彼のもらした言葉によって止められてしまった。
「……い……か……ない、で」
そう発した瞬間ぐっと歪められた顔。閉じられたままの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、おかしなことを考えた。
この涙を掬った人間が、これまで彼にいただろうか。今自分がこの小さな叫びを聞かないで、他に誰が聞くというのだろう。
誰の手も届かない場所へ落ちてゆく前に、掬いあげてやらないと。
人差し指がひたりと濡れた。
濡れた人差し指を、それ以上零れないようにと持ち上げて目尻に持っていく。彼の体温を初めて感じる。温かい。
俺は彼の頭にそっと触れて、そのまま優しく撫でた。固そうな黒髪は、触れてみると柔らかかった。猫っ毛のようだ。
そのとき少しだけ秀人の顔が穏やかになったように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
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