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約束のはじまり 4

 午後、そろそろつばめ棟はおやつの時間帯だいう頃合い。病室から、何かが倒れるような音と看護師の悲鳴が聞こえてきた。  急いで駆けつけると、看護師が床に尻もちをついて秀人を見上げていた。看護師の横には枕、ベッドの横には点滴台が倒れている。 「嘘つき……嘘つき嘘つき!! 捨てないって言ったくせに!! 嘘つき!!!」  耳を劈くほどの大声で怒鳴りつける秀人は、そのままベッドから降りてきそうな勢いだった。  これ以上何か投げつけられたら危険だと判断し、すかさず彼の上体を押さえつける。ベッドに仰向けになった秀人は動かせる足でできるだけの抵抗をした。 「今さらノコノコ現れやがって……許さない!」 「秀人」 「お前らも同罪だ! 俺が死んだって良かったんだ! 死んで欲しかったんだろ! 俺が死ねば良かったんだ!!」 「秀人、俺の声を聞いて」  顔を左右に振り乱し、両足をバタバタと動かす秀人の体を抑えるのは骨が折れた。だがここで自由にさせては何をしでかすかわからない。  俺はその混乱の中で彼の顔を確認した。  焦点が合っていない。  俺を見ているようで、おそらく見えていない。完全に錯乱状態だ。  今の秀人には、この部屋が、俺たちが、何に見えているのだろう。 「それが望みなら……今すぐにでも、死んでやる!!!」 「秀人!!」  自分でも驚くほど大きな声が出た。  その瞬間、ピタリと秀人の動きが止まる。俺の声が届いたというよりは、怯えて動けなくなったのに近いかもしれない。 「秀人……大丈夫だよ。落ち着いて。大丈夫」  押さえつけていた状態から抱きしめる体勢に変えて頭を撫でる。耳元では「ふーふー」という怒りの含まれた呼吸音が絶え間なく聞こえていた。 「大丈夫だからね。大丈夫。苦しいのも、辛いのも、死にたくなるのも、全部俺にぶつけていいから。俺に怒っていいからね……」 「嘘」 「嘘じゃない。絶対に嘘つかない」 「嘘!」 「じゃあ、俺が嘘ついたら殺していいよ」  秀人が息を呑むのがわかった。  変な奴だと思われただろうか。こんな状況なのに、苦笑してしまう。 「嘘つかれたと思ったら、俺のこと殺して。怒って。秀人の好きにして」    秀人を傷つけた人間が取るべき責任の全て、俺が肩代わりしてやろう。  あいつらのためじゃない。この子の幸せのために。  彼の壊れそうな心の前で、俺は全てを投げ出せる。  今、誓おう。 「秀人の悲しみも苦しみも、俺が全部受け止める。そして一緒に、幸せを探そう。それはどこにあるのか、俺もまだ探してる途中だから、一緒に」  ね? と耳元に口を寄せると、嗚咽が聞こえてきた。  秀人は俺の肩に顔を埋めて黙り込んだ。少しは落ち着いただろうか。 「だから、1人で死のうとしないでね。死ぬとしても一緒だよ。俺が嘘をついたかどうか見極める人が先にいなくなっちゃ、ダメでしょ?」  完全に抵抗が無くなったことに安堵し、俺は少しずつ体を離した。秀人は目を充血させて静かにこちらを見つめていた。 「たくさん喋って疲れたでしょう。1人で眠れる? 薬持ってきてもいいよ」 「眠れる……」 「そっか。じゃあゆっくりおやすみ。何かあったら、すぐ俺のところにおいで。隣の部屋にいるからね」  秀人の体に優しく掛け布団をかけ、カーテンを半分ほど閉める。  部屋を暗くして医務室へ入るまで、秀人は不思議なものでも見るような目で俺を見ていた。

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