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不安 3
仕事がひと段落し秀人に目をやると、彼は座った状態で眠っていた。膝の上に置かれたタブレットはスリープモードになっている。
あんまり静かに眠っているので気が付かなかった。彼は船を漕ぐこともなく、じっと眠りについている。
俺は休憩がてら彼のそばに近づいて、その顔を眺めてみることにした。わずかに俯けた顔には前髪がかかっている。それがどことなく妖艶さを醸し出していた。
ピアノを弾く秀人を見てみたかった。
ふとそんなことを考える。きっと美しかっただろう。今は傷ついた腕と手だが、おそらくその頃は綺麗に手入れされていたはずだ。
彼の演奏をどのくらいの人が聞いたのだろう。誰が聞いたのだろう。
「羨ましいな……」
いつか、彼にピアノを弾いてもらえるだろうか。
ピアノが得意創作である以上彼の演奏を聞くのはそこまで遠い話でも無いとは思うが、得意創作であるにも関わらずここに来てから一度も弾こうとしないあたりここにも何か事情があるのかもしれない。
彼が負った傷は、表面に出てくる強い言葉に覆い隠されているが、おそらくとても深い。あからさまに虐待を受けてきた幸月くんやその他の子と、変わらないくらいには。
彼にブランケットをかけてやってから、トイレにでも行こうと部屋を出る。その間、秀人のことばかり考えていた。
トイレから戻り部屋に入る直前、ガタンっという音が中から聞こえた。
秀人が起きたんだな、と思いながらドアをスライドさせると、眼前に迫った秀人とぶつかりそうになる。
「おっ、わ……慌ててどうした?」
一歩後ずさって尋ねると、秀人は目を見開いてパチパチと瞬きを繰り返した。少ししていつもの仏頂面に戻ると、腕を組んで横を向いた。
「どこ、行ってたの」
「え、トイレだけど」
部屋に入りながらそう答える。よくわからない質問に首を傾げ、もう一度秀人の方へ振り向いた。彼の頬が若干色づいているのが見てとれる。
「もしかして、心配した?」
「ちっ、がう!!!」
秀人は久しぶりに大きな声を出して反論した。
しかし、この間の錯乱とは違い凶暴性は無い。どちらかというと子猫がキューキュー騒ぐような、威嚇するようなそんな感じだ。怖さというより可愛さが勝る。
なるほどなるほど。
合点がいくと、途端に目の前の少年が愛しくなってきた。
「心配したんだね〜。ちゃんと戻ってきたでしょ?」
「してないってば」
「そっかー」
椅子に座り、頬杖をついて秀人を見る。おそらく俺は今酷く間抜け面だろう。
その証拠に、秀人は普段より眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいた。
「その顔キモい」
「ごめんなさい」
「こっち見んな」
「はいはい」
秀人はソファに座って、タブレットをいじり始めた。
部屋には夕方を告げるオレンジ色が差し込んでいる。
俺が叩くキーボードの音に、秀人のタブレットから鳴る控えめなゲーム音が重なる。1人きりだった部屋に響く音が増える。それが例え無機質なものでも、俺の心は満たされていた。
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