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トラウマ
「そういえばさ、これまで全然話してこなかったけど、秀人はピアノが得意なんだよね。弾きたくならない?」
水道の水を止めて水滴を拭き取り、消毒をする。上からガーゼを当てて、包帯。
一連の処置を施しながら俺は尋ねた。
話題を変えるついでに、これまで触れてこなかったピアノについて少し聞いてみよう。
彼が不安定な理由は得意創作が出来ていないことも関係してるかも。
その程度の軽い気持ちだった。
彼がピアノに対して何かしらの事情を抱えていることは予想しつつ、結局話を聞かないことにはわからなかったから、尋ねただけだったのだ。
だが、それは失敗だったかもしれないとすぐに後悔する。
「なら、ない」
包帯を巻いた腕を解放し、秀人を見る。彼は斜め下の一点を見つめていた。部屋がやけに静かに感じた。
「そっかー。まぁ、もし弾きたくなったらさ、この施設にもピアノはあるから。秀人が使ってたようなグランドピアノじゃないけど」
「俺に、弾かせたいの?」
地の底から響くような、重苦しい声だった。彼はゆっくりと俺の目を捉えて、ジリっと睨みつけた。それはここ最近見ていた目ではない。もっと奥深い、時折見せられた憎しみの目だ。
これはまずい、そう思った時にはもう遅い。
「弾かない!! 一生弾いてやらない! 絶対……! 絶対!!」
「わかってる。秀人が弾きたくなったらって言ったろ? 弾いてほしいなんて言ってないよ」
秀人は握りしめた拳を震わせながらまたも怒声を浴びせた。
「弾いてほしいと思ってる癖に! メルヘンの仕事だからなぁ!! 得意創作で稼ぐのが!」
「秀人、誰もそんなこと言ってない」
「言ったじゃねぇか!!! それが出来なきゃ、捨てるって……!」
話しているうちに潤んできた瞳から、ついには涙がこぼれ落ちた。
怒っているのに泣いている。泣いているのに怒っている。
秀人はいつもこうだ。それがとても悲しくて、見ていられない。
俺は秀人を抱きしめて、その場にしゃがむように促した。
「言った……言った……。ピアノが、弾け……ないなら、俺の、指、なんか」
「言わないで。大丈夫。俺の声だけ聞いててね。大丈夫」
秀人の腕が背中に周り、手が白衣を、俺を力強く握りしめる。あまりの強さに痛みを感じたが、彼の心の痛みを少しでも共有できていると思えば何も辛くはなかった。
「ピアノは弾きたくなったら弾こう。弾きたくなかったら弾かない。それだけ。秀人にお願いしたいのは、気持ちを我慢しないことね。だから、今こうして不安なのも大丈夫。秀人がそのままでいてくれて、俺嬉しいよ。嘘じゃないよ」
嘘じゃない。その言葉を何度も何度も繰り返した。
秀人は多くの人に裏切られてきた。だから、「嘘」に酷く怯えている。それが怒りに変わって表に出ているだけなのだ。
彼から人を信じる勇気を奪ったのは他でもない周りのリアルで、大人達だ。そして俺は彼に取って奪った側の人間として映るだろう。俺の言葉を信じるのは、彼にとってとてつもない葛藤になるのは明らかだ。
それでも、もう一度その勇気を宿してほしかった。育んでほしかった。
俺はもう二度と、彼の信じる心を奪わせない。
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