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トラウマ 4
朝の診察に行こうと病室に入ろうとすると、ちょうど出てきた看護師と鉢合わせた。診察前になぜ? という疑問を投げかける前に、看護師は口を開く。
「先ほど物音がしたので見に行ったら起きていました。でも様子がおかしいので、今先生を呼びに行こうとしていたところです」
「様子がおかしい?」
「えぇ。荒れている様子は無いんですけど……」
看護師はどう説明したら良いかわからない、というふうに首を傾げた。自分で見た方が早そうだと、俺は彼女に戻るように言って入れ替わりで部屋に入った。
「秀人、おはよう」
開かれたカーテンの向こうに見えるベッドの上に、秀人は座っていた。
しかし、その背中は丸まって膝も胸に引き寄せられるように曲がっている。ちょうど体育座りのような感じだ。そして、両手は両耳をぐっと抑えるように持ち上げられていた。
声をかけてから数秒後、彼は緩慢な動作で顔をこちらに向けた。
そこにあったのは怯えだった。それからパチパチと瞬きを繰り返した後、ようやく「先生……?」と呟いた。
「うん、先生だよ。介先生ね。調子悪いって聞いたけど、今はどうかな」
丸椅子に座りながら尋ねる。これは、相浦先生が言っていた昨日の錯乱をまだ引きずっているかもしれない。
俺のことは一応「先生」と呼んだが、それが俺自身を指しているのか、彼の記憶にある医者の誰かを指しているのか、はたまた別の誰かかはわからなかった。
「た、すく、先生」
「そ、先生は先生でも介先生です」
その音を噛み締めるように言葉にした秀人は、正面を向いて顔を俯けた。そしてポツポツと喋り出した。
「うる、さい。うるさい」
「何の音がする? それとも、誰かの声?」
「ピ、アノ! ピアノの、音……!」
怒ったように言う秀人はぎゅっと目を瞑り、指にも力を入れた。
「誰が、弾いてんのっ」
「誰だろう。弾くのやめてって言ってくるね。朝から嫌だよね」
本当はピアノの音なんかしていない。しかしここで「本館にピアノはないから音なんかするはずない」と言ったら秀人がおかしいと言外に伝えることになってしまう。幻聴や幻覚を否定すると、より頑なになって怒らせてしまうことがままあった。
俺は病室を出て廊下へ出た。3階は静かそのものだ。
少し経ってからもう一度部屋に入る。
「言ってきたよ。どうかな。弾くのやめてくれたかな」
そう告げると、秀人はおそるおそる耳から手を外した。そしてじっと、慎重に確認している。
「ちょっと……」
「まだちょっと聞こえる? 音小さくなった?」
問いかけると、こくりと頷いた。幻聴があるものの、普段より素直でわかりやすい。
「じゃあ、俺のスマホで何か流そうか。動画でも、音楽でも」
「ラジオ」
「ラジオがいい? わかった」
スマホを操作して、適当なラジオをつける。音を少し大きめに設定してサイドテーブルに置いて秀人の様子を見ていると、少しずつ体の強張りが解けていくのがわかった。
秀人が黙っているので、俺も黙っていた。今はあまり余計なことを言わない方がいいだろう。
秀人がピアノの音を指摘しなくなったので、どうやら完全に聞こえなくなったらしい。そのことにまず安堵しつつ、俺はこれからのことを考えていた。
ピアノへのトラウマと、ピアノが得意創作であることとどう向き合っていくべきか。相浦先生は得意創作欲を満たす方法について模索していく方針を掲げていたが、最終目標はピアノが弾けるようになることだ。そのためには、得意創作の代用になるものだけでなくメンタル面のケアも重要になってくる。
今はまだ、彼は自分の過去やトラウマを話す気は無いだろう。俺が信頼に足る人間ではないからだ。やはりまずは彼と少しずつ打ち解けていくことからだ。
そして、得意創作欲を満たすために何が代用できるか。
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