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プレゼントと提案

 数日後、俺はいつものように朝の診察のため秀人の部屋を訪れた。  ここ最近の秀人は、大きく体調を崩すことはないが、だからと言って調子が良いというわけでもないという不安定な状態だった。  そのため、一日中医務室で共に過ごす日もあればベッドに寝たきりという日もある。嘔吐の症状も見られるようになったのは、胃の機能が弱くなっている証拠だった。  原因はおそらくストレスだろう。2、3日に一回の頻度で幻聴が聞こえていたらそうもなるだろうと思う。  だから、久しく秀人の悪口は聞いていない。それが少し寂しかった。 「おはよー、気分はどうかなー」  病室に入ると、窓側を向いて横になっている秀人がいた。カーテンが開いていることから看護師が既に来たことがわかる。人に敏感な彼が、それで目覚めないということはないだろう。 「今日はね、診察の前にちょっとお話しようと思ってるんだ。だから、ちょっとでいいから起きてくれない? こっち向くだけでもいいよ」  そう言っても、秀人はだんまりだ。微動だにしないので、仕方なく窓側に回った。  やはり彼は起きていた。  俺に気がつくとすぐに体を反転させようとしたので、彼の手首を掴んでそれを制した。 「はい、そのままで良いからちょっと聞いてね」  俺は白衣のポケットを上から触り、持ってきたそれの存在を確かめてから口を開いた。 「ピアノの音が嫌だって前言ってたでしょ。だからね、そんな秀人にこれ、プレゼント」  ポケットから出したそれを、枕元に置く。秀人は薄目でそれを認識していた。 「な、に」 「音楽プレイヤーだよ。曲は俺が勝手に入れちゃったけど、何か聞きたいのが他にあれば入れれるから。イヤホンで耳を塞げば、ピアノの音は聞こえないでしょ?」  早速試してもらおうと上体を起こすよう促すと、彼は案外すんなり起きてくれた。ちょっとは興味を持ったみたいだ。彼は手に音楽プレイヤーを取ってまじまじと見つめている。 「ここが電源。画面がついたでしょ。この十字で操作」 「モーツァルト……?」  画面に映ったファイル名を見て、秀人が眉間に皺を寄せ呟く。  そりゃあ嫌だろうな、と心の中で思った。  彼はおそらく、これまで数多のクラシックを頭に叩き込まれ、指で覚えさせられてきただろう。そのことも承知の上で、俺は曲を入れた。これは賭けなのだ。 「いらない」  秀人はそれ以上操作しようとせず、俺に突き返した。しかしこちらも受け取る気は毛頭ない。 「それはもう秀人にプレゼントしたの。良いから、ちょっと聞いてみてよ」  そう言って、俺は彼の耳にイヤホンを着けさせようとした。彼は身を捩って抵抗する。彼の体をギュッと抑えて、片耳だけ着けさせることに成功した。取り外される前に音楽を再生する。 「いっやだ!」 「まぁまぁ、聞いてごらんよ」  イヤホンを取り外せないように抑えている腕は小刻みに震えていた。可哀想な気もするが、これは賭けだ。成功すれば、きっと秀人がトラウマを克服する日は近くなる。  トラウマを待ち構えてぎゅっと目を瞑っていた秀人は、ある拍子にハッと目を開いた。少しずつ震えが収まっていく。それを見て胸を撫で下ろす。どうやら成功したらしい。 「こ、れ。ヴァイオリン……?」 「そう。モーツァルトはピアノ曲だけを作ってたわけじゃないよ。他のファイルの、ベートーヴェンやバッハもそう」  秀人はイヤホンをしっかり押さえて聞き入っているようだった。  彼の表情が和らいでくるのがわかる。  彼の得意創作はピアノ。そして彼はこれまで多くのクラシックに触れてきた。曲と楽器は違えど、それを聴くことは彼の心を癒すに違いない。そう踏んだ。 「嫌じゃない?」  尋ねると、秀人は目を瞑ったまま小さく頷いた。  一曲聴き終えるまで、邪魔をしないように横で静かに座っていた。秀人はすぐに音楽の世界に引き込まれたようだ。時折、曲に乗ってか体が動いていた。  彼はイヤホンを外すと、ゆっくりこちらを見た。少し目を合わせてから、俯く。 「俺、金無い、けど」  唐突にそう言ったので何のことかよくわからなかった。しかし、その手が音楽プレイヤーをぎゅっと握りしめたことから、代金の話をしているのだと気がつく。俺は首を振った。 「いらないよ。プレゼントって言ったろ? プレゼントされたら、そのお金は払わなくていいの」 「でもっ」  秀人は握りしめた音楽プレイヤーを俺の前に差し出した。そして困惑したような表情で言う。 「高い、から……」  そんなことを気にしているのか、この子は。  ほわりと胸が温かくなるのを感じた。  目の前の少年が愛しくてたまらなくなった。

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