3 / 16

第3話

百円均一の寿司屋かと思った。そう言ったら、目の前で無表情で寿司を握っている男はしばらく黙ってから、『もう少し高い』と生真面目に返してきた。 『百々』と書いて、『どど』と読む。それはこの男の苗字でもある。  満身創痍の俺を店の中に入れ、百々真(どどまこと)と名乗った男は、この寿司屋『百々寿司』の大将見習いらしい。  百々寿司はこじんまりとした店で、今俺が座っている席を含めて席数は四席きり。年季の感じられる木目のカウンターテーブルと、その上に今は空っぽのネタを入れる冷蔵ケースが置かれている。カウンター内を少し覗き込めば、洗い場や冷蔵庫、大きな炊飯器も全て見える。ザ・個人経営といった風貌の店だ。 「俺、回らない寿司屋に来たの、初めてだ」  ぐるりと店の様子を眺めながら、何とはなしに真に話しかける。寿司が食いたいと突然言った俺を店の中に招き入れて席に座らせてから、カウンター内に入った真は、それから一言も話さず、ただ黙々と寿司を握っている。  変わった奴だとは思ったが、まさか寿司職人だとは思わなかった。血迷って呟いた言葉が、まさか寿司職人へのオーダーになるなんて、偶然にもほどがある。他人から聞いたらまず作り話を疑うレベルだ。  つらつらとそんなことを考えながら、そのとんでもない偶然の対象を眺める。平均ど真ん中身長の俺よりも、頭一つ分は背が高く、パーカーにジーンズのラフな格好でも、スタイルが悪くないのはわかる。短めの黒髪に切れ長の黒い目。控えめだがすっと通った鼻筋に、薄い唇。  よく見れば、華やかではないが顔は悪くない。分類するなら、硬派な塩顔系イケメン、といったところか。ただし、それら全てを帳消しにするくらい表情筋が死んでいて近寄りづらすぎるから、まあ、モテないな。 「何が回るんだ」 「えっ?」  唐突にこちらを見て喋った男と、ばっちり目線がぶつかる。勝手に格付けしていた手前、一瞬たじろいだ。 「回る寿司屋は、何が回ってるんだ」  表情と同じように抑揚の少ない淡々とした低い声で、真が問いかける。表情と声と話の内容のギャップに、俺の頭の回転が止まりかけている。 「さ、皿、だけど……あー、回転寿司って、知らねー……?」  戸惑いを隠し切れなかった言葉に、つ、と真の視線が考え込むように逸れる。たっぷり三秒は沈黙した後に、再び視線が帰ってきた。 「回転寿司は、知っている。……皿が回らないから、うちは回らない寿司、なのか」  一切表情を変えずに、わかった、というように、真がこっくりと頷く。  沈黙、三秒。 「……え、それだけ?」  子供のような仕草と、無の表情。そのギャップに堪えきれなかった。 「……っ、ふ、ははッ」  吹き出したのが傷に響いて、いたたた、と笑い呻きながらカウンターに突っ伏す。どうやら変なツボに入ったらしく、笑いが止まらない。表情筋が死滅した天然キャラはギャップが過ぎる。  しばらく突っ伏したまま笑いと痛みを堪えていると、コトッ、と何かを置く音が耳元で聞こえた。笑いの余韻でひいひい言いながら顔を傾けると、つやつやと鮮やかに輝く、橙みがかった薄紅色が目に飛び込んでくる。  見るからに旨そうな、サーモンの握り。 「食べられるか」  ガバッと身体を起こした。あっという間に痛みも忘れて、ぶんぶん首を縦振りする。  木の四角い板の上に並べられた、六貫の握り寿司。普通なら様々な握りが並ぶはずのそこには、サーモンの握りだけが並べられている。こみ上げてくる涎を、ゴクリと飲み下した。 「……っ、いただきます!」  使い慣れない左手を駆使して、カウンターの上に置かれた小皿と醤油をひっつかみ、若干溢しながら醤油を注ぐ。切れた口端の痛みも気にせず、大きな一口で握りを口に押し込んだ。 「……んー……ふはは、あー……」  口の中いっぱいに広がる、まろやかで少し甘い味わい。  自然と込み上げてくる笑いが抑えられない。食べれば食べるほど、空っぽになっていた幸福感のゲージが満ちていく。  三分もかからなかったかもしれない。あっという間に全て平らげて、天井を見上げながら、ふー、と俺は深い息を吐いた。 「うっま……こんなうまい寿司、俺、はじめて食った……」  最近の食事といえば、安い居酒屋のさしてうまくない料理を安酒で流し込むか、適当なコンビニ弁当を買って食べるだけ。こんなに食べることに夢中になって、美味しいと感じることは久しぶりで、もしかしたら本当に初めてかもしれなかった。 「あー、ごちそうさま。マジでうまかった」  改めて礼を言うと、いつからこちらを見ていたのか、真と正面から視線がぶつかった。相変わらずの無言に無表情だが、さっきまでとは少し違う。  底が見えないほど暗く見えた黒い瞳は先ほどより光を帯びて、ほんの少し頬が紅潮している。何より、まとう雰囲気がさっきよりずっと軽やかで明るい。  つまり、めちゃくちゃわかりにくいけれど、多分、喜んでいる。 「ははっ、なに、そんな嬉しいの?」  職人っていうのは、自分の作ったものが褒められたら、何であれ嬉しいものなんだろうか。こんな見ず知らずのボロボロ行き倒れ男の言葉でも。 「……どうして、店の前で倒れてたんだ」  こちらの質問には答えず、真が今更すぎる質問を投げてきた。寿司を食わせる前に聞くことだろ、と爆速で食っておきながら思う。 「あー、ヤクザの彼女と寝て、それがヤクザにバレて、半殺しにされて、車で拉致られて、路上に捨てられた、っぽい」  経緯を指折り数えながら改めて言葉にすると、だいぶ酷い。まあ死んでないだけマシなんだろうけど。 「……そうか」  たった一言そう呟いた真は、相変わらず一切表情を変えなかった。  下手な同情は欲しくない気分だから、そのくらいの反応が今は心地良い。それが正しい反応なのかは、置いておいて。  ふー、と息を吐きながら、醤油を入れた小皿のフチの細かな凹凸を、つーっと指でなぞる。腹が満たされて、これからどうしようか、ようやく頭が現実と向き合いはじめる。  今戻って、またヤクザに見つかったら、今度こそ殺されるかもしれない。でも、たとえそうでなくても、なんだかもう全てが面倒くさく感じた。焼き増しみたいに同じ内容を繰り返すだけの飲み会も、面白くもない他人の話にバカ笑いすることも、好きでもないのにセックスすることも、全部。  半殺しの目にあったせいで、俺の中で、ぷつん、と何かが切れたようだった。 「なー、大将、俺のこと、住み込みバイトで雇う気とかない?右手はしばらく使えなさそうだけど、意外と真面目に働くからさ」  両手を合わせるふりをして、へらりと笑う。もちろん、冗談だ。体のいい現実逃避。茶色い醤油の液面に映った自分が、自嘲の笑みで唇を歪ませていく。 「な~んて、冗談……」 「いいぞ」  俺の茶化した声に被さるように、はっきりとした低い声が重なった。それは紛れもなく、カウンターの中にいる男の口から発せられていた。 「…………え?」  最初に見た時と変わらない、感情の機微など全く感じられない能面のような顔面。ただその中で俺をまっすぐ見る瞳に、今は意志を感じた。本気だ、という意志を。 「お前を雇う」 「な……、い、いや、アンタ、俺のこと何も知らないだろ。そんなんで雇うって……」 「名前、教えてくれ」 「え……、あー……金子(かねこ)千隼(ちはや)……だけど?」  今までにない勢いを感じる問いかけに、思わず真面目に答えていた。 「……千隼、か。わかった」  神妙に男が頷く。待っていても、それ以上は何も聞いてこない。  名前だけ。証明するものもなく、本名かどうかもわからない音の羅列にすぎないたったそれだけで、何がわかるのか。 「は……」  変な奴も度が過ぎると呆れる。呆れすぎて、なんて言っていいかわからなかった。 「一つ、正してほしいことがある」 「……なんだよ」  ヤクザに半殺しにされて路上でぶっ倒れてた男だ。自分で言うことじゃないが、正すところは一つどころじゃないだろ。 「俺は、大将見習いだ。大将じゃない」  至極ド真面目に言った男と、たっぷり五秒は見つめ合った。  発したい言葉が山のように湧き上がって、空気を吸って、口が音の形に動いて。  そこで、ふっと身体の力が抜けた。同時に、自分でも驚くくらい、大きな笑いがこみ上げてきた。 「…ははっ、はははっ、そこかよ!お前、もっと気にするとこあるだろ!」  こいつがいいなら、いいじゃないか。  どうせ財布も、携帯も、全部ヤクザに持っていかれて、何一つ持っていない。今食べた握り代だって、よく考えたら払えない。今の俺には、本当に名前くらいしかない。だったら、いいか。 「はー……じゃあ、頼むわ。大将見習いさん」  相変わらず読めない表情でこちらを見ている男に、にっと笑ってやる。 「とりあえず、この握り代は給料天引きで頼むわ」  こうして、完全な身一つ状態で、俺は田舎の寿司屋に転がり込んだ。

ともだちにシェアしよう!